「がんばる人生」から「ありのままの人生」へ 東後勝明氏インタビュー(1)

父とアメリカ兵の会話に憧れ自発的に英語を勉強

 英語教育界の第一人者で、有名大学の教授という人生を歩んできた東後勝明氏。それは、才能を開花させるための文字どおり人並みはずれた努力の結果だった。

 東後氏が初めて英語を聞いたのは、第二次大戦が終わってから数年後、小学校五年生のときだった。瀬戸内の小さな町で雑貨商を営んでいた生家に、突然、占領軍のアメリカ兵が入ってきた。

 「父はかつて商社で働いていて少し英会話ができたので、米兵とやりとりをしていました。それを見て『ああすばらしいな。自分も英語ができるといいな』と淡い子供心に、勉強したいと思いました」。

 それをきっかけに、教会の英語クラスに通い、ラジオの英語講座を聞き始める。

 しかし、高校一年のときにお父さんがガンで急逝し、状況は一変する。東後氏も家業を手伝い、一年間は学校にほとんど行けなくなった。その間、好きな英語だけは独学を続けたのだが、復学しても他の教科が追いつかない。結局、受験に失敗し、浪人して母校の高校で授業を“聴講”させてもらいながら受験勉強を続けることになる。

死への怒りと恐怖をバネに英語のスペシャリストを志す

 二年のブランクの後、東後氏は第一志望だった早稲田大学教育学部への入学を果たし、ひたすら英語に没頭する。クラブ活動でESS(英語会)に入り、スピーチや英語劇の大会があるたびに猛特訓。寝る間も惜しみ、夜の電話ボックスでスピーチの練習をして警官に職務質問されながら、一年生で学内コンテストに優勝する。その後、部の幹事になると部室内での日本語禁止を徹底するなど鬼気迫る取り組みを行い、全国大会優勝など成果を出していった。

 これほどまでに氏を駆り立てたものは何だったのか。

 「死への怒りと恐れ、そして不安でしたね。父がガンで倒れ『出世しろよ』と言い残して死んだ後、自分も父と同じように骨と皮になって死ぬかもしれないと思いました。そしてあるとき、お腹がおかしい気がして病院で診察を受けましたが異常はなかった。ガンノイローゼになっていたのですね。そして最終的に死に向かって歩んでいくなか、今どういう気持ちでいればいいのかを真剣に考えました。

 それから将来に対する不安もあった。当時は両親がそろっていないと一流企業には入れないと思いこんでいました。それで、サラリーマンではなく、スペシャリストになり、東後勝明でなければ事は収まらないというものを何か一つ身につければいいと思った。

 だから英語に対しては、単なる憧れとか、好奇心とか、かっこ良さの裏に、非常に切実な自分の生きる道ということまで考えていたのです」。