「がん哲学」で心に処方箋
―教会にがん哲学外来・カフェを! 第3回 偉大なおせっかい

樋野興夫
順天堂大学医学部
病理・腫瘍学 教授

ひとつのテーブルに、スタッフ(ファシリテーター)がひとりつき、がん患者やその家族、医療関係者などが数人集まって二、三時間、コーヒーやお茶、お菓子とともにお互いに話をする「がん哲学外来・カフェ」。
それが行われている間、私は別室でひとり、「がん哲学外来」を行っています。
これは三十分から一時間ほどの個人面談で、事前に予約をしていただいています。私の講演や著書を通して、また紹介などによって、少しずつ「がん哲学外来・カフェ」の拠点は全国各地に広まりつつあり、遠方は毎月とはいきませんが、その集まりに招かれて、定期的に「がん哲学外来」も行っているのです。面談時間は集まりによっても違いますが、一時間ほど話すことができれば十分だと思います。
この個人面談には、さまざまな人がやってきます。ただ私と話したかったという人もいますし、がんの治療方針に悩んでいる人や、医師のことばに傷つけられたという人もいます。夫婦や家族で来る方もいますし、クリスチャンの方も相談にやってきます。医学的な質問を受けることもありますが、その三分の二以上は、「人間関係」や「治療への不安」、夫婦や職場においての悩みを抱えている人たちなのです。これまで順調に歩んでいると思っていた人生が、「がん」によってストップしてしまい、失望という心の状態を抱えてやって来るのです。
部屋に入って来るとき、その人の顔は、暗いことがほとんどです。笑いなど出ないといったようすで、話をされながら涙を流す方もいます。
最初の十五分ぐらいは、何も言わずに、〝暇げな風貌〟で、ただ相手の話をひたすら聞きます。「どうしてここに来られたのか」「だれかからの紹介か」など、ひたすら傾聴するのです。私は病理医として「がん細胞」の〝風貌〟を顕微鏡で見て、その細胞について知ることを専門としていますので、外来にやってきた人のことばや、ようすを見ることで、相手を知ろうとします。そうして、相手にどのような〝ことばの処方箋〟を語ることができるか考えるのです。
時に、どんなことばをかければいいのか、何のことばもかけられない……という場合もあります。
そんなときは、無理にことばをかけるのではなく、困ったな、という顔でお茶を飲むことにしています。少しの間、沈黙が続きます。そしてまた、相手が話し出したりすると、私はそれに耳を傾けるのです。
教会ではそんなとき、つい「祈りましょう」と言ってしまうことがないでしょうか。相手の話をとことんまで聞かずに、「祈りましょう」ということばですませてしまうことがないでしょうか。そう言われてしまうと、弱音やつらいという気持ちを吐き出すことができなくなってしまう場合があります。私は困ったら、お茶を飲むとよいと思うのです。「クリスチャン」ではなく、神が造った「人間」として互いに向き合う。「沈黙」を恐れるのではなく、沈黙を一緒に過ごすとよいと思うのです。

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相手の話を聞いたあとは、今度は私が〝ことば〟を語ります。がん哲学外来の後半は、ほとんど私が話していると言えるでしょう。これが普通のカウンセリングとは異なるところで、〝偉大なおせっかい〟と私が呼んでいるものです。
相談に来る方は、つらい現実にがんじがらめになっています。そんなときに、「八方ふさがりでも天が開いている」と言うと、相手はハッとされます。私は聖書はもちろん、いく人かの著書から得たことばを、まるで、自分のことばのように堂々と言います。その意味では、私自身も日々勉強と言えるでしょう。
そうして、おせっかいな〝ことばの処方箋〟によって、暗かった相手の顔が次第に変わっていくのです。「がん」というつらい現実は変わらなくても、その現実に対して、どのように「反応するか」はさまざまです。私はその人が、悪い反応ではなく、良い反応ができるようにと願っています。沈んだようすで「がん哲学外来」にやってきた人は、そのほとんどが、来たときとは変わった顔つきで帰っていきます。頭で理解し「わかりました」とは言っているけれど、顔つきは変わっていないというのではなく、その人の表情やようすが変わること。それが、私の目指すところです。もちろん、自宅に戻れば、また沈むことや寂しくなることもあるでしょう。でも、涙を流しながらも、笑顔になれる瞬間があれば、その事実はその人を助けます。つらい現実や絶望の中でも、自分には使命がある、できることがある、と思えるようになると、人は変わっていくのです。
顔と顔を合わせて、「沈黙」をともに過ごすこと。そして〝ことばの処方箋〟を語ること。そんな、〝おせっかい〟をこれからもしていきたいと思っています。