「ダビデの子」イエス・キリスト 第1回 「預言者ダビデ」

三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師

新約聖書において旧約聖書がどのように用いられているのかということは、現代の新約聖書学の大きな関心事です。このシリーズでは、その研究分野の一つでもありますが、旧約聖書のある人物が新約聖書において、いかに用いられているのかということに焦点を当てます。
旧約聖書の有名な人物として、例えばアブラハムの名前は新約聖書中七十三回、モーセの名前は八十回、そしてダビデの名前は五十九回登場します。その登場の仕方には、それぞれに特徴があります。それがすべての用法ではありませんが、アブラハムの場合は「ユダヤ人たちの父アブラハム」といった文脈でよく登場します。モーセの場合は「モーセは……なぜ命じたのですか」と、律法との関係でよく登場します。

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では、ダビデの場合はどうなのでしょうか。興味深いことに、ダビデの場合はそのほとんどがイエス・キリストとの関係で登場するのです。新約聖書中に登場するダビデを追っていくとき、ダビデは常にイエス・キリストのことを指し示していることに気づきます。そんな視点が、イエス・キリストについての新たな発見を与えてくれるかもしれません。そのようなことに期待しつつ、まずは新約聖書中に登場するダビデをイエス・キリストの生涯に沿って拾い上げてみます。

イエス・キリストの誕生
イエス・キリストの誕生は、ダビデと深い関係にあります。メシヤがダビデの子孫から誕生するという神の約束(Ⅱサムエル7・12。ヨハネ7・42、使徒13・23、ローマ1・3、Ⅱテモテ2・8、黙示録5・5、22・16参照)は、イエス・キリストにおいて実現します(ルカ1・32、69)。だから、地上におけるイエスの父となるヨセフはダビデの家系であることが強調され(マタイ1・20、ルカ1・27、2・4)、イエスは旧約聖書で預言されたごとく(ミカ5・2参照)、「ダビデの町」で生まれます(ルカ2・4、11)。このようにして、イエス・キリストの系図には、必ずダビデが登場するのです(マタイ1・1、6、17、ルカ3・31)。

ガリラヤにおけるイエス・キリスト
二つのエピソードが目に留まります。一つは、パリサイ人から非難を受けたときに、イエスがダビデを引き合いに出したことです(マタイ12・1―8、マルコ2・23―28、ルカ6・1―5)。もう一つは、特にマタイの福音書が「ダビデの子」イエスによる病の癒やしを記録することです(マタイ9・27―31、12・22―23、15・21―28)。イエスの癒やしと「ダビデの子」には、何か関係があるのでしょうか。

エルサレムへの旅におけるイエス・キリスト
ガリラヤからの旅の中でイエスがエルサレムに到着しようとするとき、今度は共観福音書のすべてが「ダビデの子」と呼ばれるイエスの癒やしの記事を記録します(マタイ20・29―34、マルコ10・46―52、ルカ18・35―43)。

エルサレムにおけるイエス・キリスト
いよいよ、イエスのエルサレム入城です。人々は歓喜に沸き、イエスをダビデにつながる王として迎えます(マタイ21・9、15、マルコ11・10)。その後、イエス自身が「ダビデの子」にまつわるメシヤ論を提起します(マタイ22・41―46、マルコ12・35―37、ルカ20・41―44。ローマ1・3―4、2テモテ2・8参照)。

イエス・キリストの受難・復活・昇天
イエスの受難・復活・昇天とダビデの関係については、福音書というよりも使徒の働きが教えてくれます。使徒たちが後になって、イエスに関わる出来事を、特に詩篇を通して解き明かします。詩篇の作者(ローマ4・6他)にとどまらず、「預言者」(使徒2・30。 ローマ11・9―10、ヘブル4・7参照)でもあるダビデを通して、詩篇はイエスに対するユダの裏切り(使徒1・16―20)、イエスの受難(使徒4・25―28)、そしてイエスの復活(使徒2・25―32、13・33―35)と昇天(使徒2・33―35)までも預言していたのでした。新約聖書において、ダビデは信仰の人(ヘブル11・32)、神殿建設を願った人(使徒7・45―46)として評価されますが、すでに述べたように、イエスの生涯がダビデの生涯と比べられていること(使徒13・22参照)が大切でしょう。ゆえに、ダビデの権威はイエスのさらなる権威(黙示録3・7)を、ダビデの死はイエスの復活(使徒2・29、13・36)を、ダビデの王国はイエスのさらにすぐれた王国(使徒15・15―18)を指し示します。

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ダビデとイエス・キリストの関係において、これまで見えてこなかった部分が少しは見えてきたでしょうか。そして、この二人の関係について、もっと深く学んでみたいという興味が出てきたことでしょうか。