「二人」を生きる関係 新連載第1回 見えざる神の御手の導き


近藤由美

 私が結婚式を直前にひかえていた頃、当時同じ職場にいた素敵な中年女性から、お祝いの品をいただきました。それには「結婚は恋愛より数段いいものですよ。おめでとう」と書かれたカードが添えられていました。その後の十二年の結婚生活は、この言葉の意味を知り、味わい、納得する時となりました。

 私たちは、進学や就職、あるいはコンクールや試合のためには、全身全霊を傾け、たゆまぬ努力をして備え、競争に打ち勝とうとします。何の準備もなしにそれらにのぞむことは、無謀であることを誰もが百も承知しています。しかし、どういうわけか結婚については、成り行きまかせの感を否めません。クリスチャンこそ、結婚準備のための「塾」(単に結婚相手を紹介してくれる相談所や、花嫁修業する所とは違います)に通い(そんな「塾」はないと思いますが)、充分な備えをして結婚してもいいのではないかと、私は思っています。それだけの備えをするに価値のあるものが結婚だと、私は思います。そして「独身」に召されていない限り、「結婚」に召されているという事実を忘れてはならないと私は思います。

 しかし若い、これから結婚していく人たちが、自分の両親の結婚のあり方を見て、深いところで傷つき、憧れを抱けないほど失望し、神さまへの信仰は告白できても、その神が自分にふさわしい伴侶を与え祝福してくださろうとしているとは信じられず、異性に心を充分に開けないままに過ごしている人が少なくないというのも事実でしょう。しかし、「あきらめてはならない!」と私は声を大にして言いたいのです。惜しみなく与えるお方は、結婚においても、「良き」結婚を与えようとしておられることを共に信じたいのです。

 夫婦、家庭という場に、ヨハネが告白しているように、「愛」が、目で見たり手でさわったり(Ⅰヨハネ1・1)できなくなっている時代であるからこそ、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい」(ヘブル13・4)というみことばを、私たちは重く、真摯に受け止めなければならないと考えます。


 私は四十歳で夫に出会い、結婚したのは四十一歳でした。私が結婚について、何もわからないままに、当時通っていた教会の先生に導かれて初めてお祈りをしたのは十九歳、大学一回生の時でした。まだ恋に恋している頃で、結婚には憧れつつも、周りの現実は、冷え切っていたり、憎しみでいがみ合っていたり、離婚には至っていないものの、実質は家庭内別居状態である夫婦で溢(あふ)れていました。私の恐れは、私も例外ではなく、結婚したとしても、やがてこのような苦悩と後悔に満ちた結婚生活に陥っていくのではないかというものでした。

 私の中で、結婚についての意識が大きく変化したのは、それからしばらくして、国際結婚をしているある宣教師夫妻に出会った衝撃によります。「こんな結婚が本当にあるのだ」と目を疑いました。もしもこんな結婚ができるのなら、神さまがこのような結婚を私にも与えようとしてくださっているのなら、私も結婚したい、そう初めて思えたのです。

 若い時は、まず、「どのようにして出会うのか」「どのように付き合っていくのか」と恋愛の始まりのきっかけばかりを求め、そわそわしています。しかし大切なことは、今自分が置かれている場を大切にすること(つまり学生ならしっかり学ぶ、若い時にしかできない教会の奉仕をしっかりやる)、そしてしっかり生きることです。その中で、師と仰ぐ人に出会って感化を受けたり、同性や異性との友情を経験したり、先輩後輩の関係を経験したりと、人との関わりを経験することでしょう。人に出会うことによって、感性は磨かれます。そして自分について知っていくこともできます。

 いつ、どのようにして、一人の人と出会うかは、神の御手の内に隠されています(楽しみですね)。決してあわてないこと、周りに流されないこと、自分をせかさないことです。でも心は閉ざさずにいましょう。生涯を共にすることになる人との出会いは、劇的な場合もあれば、全くそれとは分からない形で始まることもありますから、心はいつも神さまと人とに開いていることです(心を開く自己訓練が若い時代の一つのテーマでしょう)。

 そして誰か一人の異性のことが気にかかり始め、どうしてもその人から目を離せなくなったり、寝ても覚めてもその人のことが思われるようになったなら、まずはそのことを喜びましょう。自分と異なる性を持つ一人の人のことを、手放しで「すてきだ」と思えるようになることは、成長したしるしです。その人が仮にノンクリスチャンだとしても、罪意識を持つ必要はないのです。異性に「ときめく」までに、神さまが心も体も成長させてくださったことを喜ぶのです。