〝新島八重”という生き方 幕末・明治に〝聖書”を握った人々

大倉薫
日本キリスト教会 聖園教会牧師

日本の歴史、とくに幕末・明治と聖書・キリスト教との関係を知ることは、日本の伝道に大きな意義をもっていると思います。主なる神は、歴史の支配者であり、みことばをもって天地を創造し、みことばをもって世界を支配しておられます。この生ける神のことばを知っているかいないかは、大変重要な問題です。伝道者パウロも、「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2・16)と語っています。
幕末・明治という激動の時代に、権威ある立場にあった武士たちや活動的な志士であった人々が、神のみことばに動かされていたということが、今まであまりにも見過ごしにされていたのではないでしょうか。
『聖書を読んだサムライたち』シリーズは、私たちの目をこのことに開かせてくれます。

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『龍馬の夢』の第三章には、坂本龍馬の甥である「坂本直寛の生涯」が紹介されています。直寛は聖園教会が無牧だった時代に、この教会を支え、説教と牧会・治会をした人物です。直寛は、一家をあげて高知から北海道・浦臼へ移住し、聖園農場の経営と伝道に従事します。一八九八年、聖園入植五年目にあたる年に石狩川の大洪水が起こり、直寛は札幌・東京でこの洪水の救済運動に尽力するのです。翌一八九九年に直寛と四人の子どもたちは高知教会から、妻は土佐教会から、聖園教会に転籍し、その五月に直寛は長老に選ばれます。長老として説教をし、教会を支えたのでしょう。
翌一九〇〇年、直寛らは石狩川治水の請願書を政府に提出して、議決され、翌年三月、三十キロ以上にわたる治水工事が竣工されますが、直寛はともに請願書を出した同盟会から誹謗中傷を受けて排斥され、一時、社会とも教会とも交際を絶ちます。かかわっていた政党とも絶縁しますが、一九〇二年に札幌で再会した植村正久牧師のすすめに従い、旭川講義所(現・日本キリスト教会旭川教会)の伝道師に就任します。一九〇四年、按手を受けて牧師となり、軍隊伝道に従事しました。一九〇六年、旭川諸教会合同のリバイバル運動を興し、一九〇七年、十勝監獄・帯広・釧路伝道においても、リバイバルが起こります。一九〇九年、旭川講義所を辞任し、札幌に転居しますが、再び無牧となっていた聖園教会の説教・牧会を応援するようになります。
龍馬の子孫たちで、クリスチャンになった人々は多く、信徒として証しとなる生活をし、社会や平和のために働いています。このことを思うと、いつの日か、坂本龍馬と聖書・キリスト教との関係を示す「一級の資料」が出てくることを期待してしまいます。
たとえば、直寛の子、直道は聖園小学校で学び、その後、東京帝国大学法学部を卒業し、やがてパリで日仏交流雑誌「フランス・ジャポン」を創刊して、日米開戦を回避する運動をします。その後、直道は家督を相続して、龍馬家の四代目を継いでいます。