いじめ 大人と子どもと教会と 土台となる価値観を

杉谷乃百合
東京基督教大学準教授 教育心理学/キリスト教教育学

いじめの定義

 二〇〇七年に入って文部科学省は、いじめの定義やその調査の見直しをする意向を表明しました。新しい方向性として「個々の行為がいじめにあたるか否かの判断をいじめられた児童・生徒の立場に立って行うことをより明確に示す」とし、以下のように「いじめ」を定義しています。「いじめ」とは、「(1)自分より弱い者に対して一方的に、(2)身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、(3)相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」

いじめと主観性

 この定義の示す人間観には、ポストモダン的個人主義的思想、ロマンティシズム的子ども観が反映されています。ポストモダンの思想は、多様な価値観を認め、多様性を良きものとして、抑圧的な考え方を避け、特別な存在である自分を強調します。価値観はそれぞれの価値観として存在すればよいという“価値観”がその根にあります。

 ロマンティシズム的子ども観は、子どもが持っている主観や才能をできるだけ重んじ、咲くべき花として咲かせようと強調するのです。

 このような思想は、六〇年代に“価値観の相対性”としてアメリカの教育現場で広く受け入れられ、生徒たち自らが価値観を選ぶことが奨励されました。しかし七〇年代には、価値の相対性を認めた結果起こった教育現場の悲惨な状況(ドラッグ、飲酒、セックス、暴力、武器等の問題)への批判と反省として、よい人間形成を行うため、普遍的な徳目を教えるべきであるとする品性/人格教育(キャラクターエデュケーション)という道徳論が生まれてきました。

 ここで注目したいことは、アメリカの教育界の歴史は価値を身につけていない子どもに価値の選択や自己決定を与えることの危険性を証明している、という点です。人間としての土台である価値観や道徳を持たないと、人間はただ自己中心的な行動をとり、好きなように振舞い、学校や社会には混乱が起こります。健全な価値観は他者を考慮する土台でもあります。明確化する価値観が身についていない子どもの価値観を尊重しても、はっきりしてくるのは子どもの欲求と欲望ばかりで、価値観はかえって弱まります。品性/人格教育の第一人者であるトーマス・リコーナは、基本的道徳を具体的に子どもに教えることなく子どもに社会化をうながすことは不可能であると説いています。

いじめの構造

 現代の日本の教育現場で深刻な問題となっている「いじめ」の構造は、さまざまな角度から考えられます。少し例をあげてみます。心理学的には発達課題の問題(養育者から受けるべきものを受けていなく年齢相応の心理的発達がなされてない)として、社会学的には社会化のプロセスの問題(生活する地域社会の一員となることを大人や地域から学べてない)として、哲学的には止揚の問題(矛盾する要素がぶつかり合いながら発展的に統一されることが行われていない)として、そして宗教的には隣人としてともに生きるという生き方の欠落、として「いじめ」を考察することができます。

 ここで見えてくることは、大人が子どもの生活に深くかかわり、愛情を注ぎ、模範を示し、問いを与え、生き方を示さない限り、子どもたちは、心理的にも、社会的にも、哲学的にも、宗教的にも健康に育たないということではないでしょうか。

いじめに対する宗教と道徳、大人の役割

 教育や臨床現場での実践をとおして、私は、人間が成長し、精神的健康を維持し、責任ある市民となるためには、道徳が重要な役割を果たすことを認識してきました。

 そして重要なことは、その道徳がどこに根ざし、どのような信念に裏づけられているのかです。キリスト教の教えはイエス・キリストの愛に根ざし、私たち人間が神を敬い、隣人を愛するようにと説いています。

 ちょうど今から一年前に急逝した父が姉弟けんかの仲裁に入った時の言葉を、私は今でも鮮明に覚えています。少しでも自分の非を軽減しようと必死に自己弁護する私たちに向かって父は、「おまえたちは自分のことばかり考えている。相手の立場に立つこと、自分が悪かったと認めることをしなさい!」私が自分のことばかり考えすぎている時、相手の立場に立つことを忘れている時、自分の非をなかなか認められない時に、何十年も前の父の言葉が必ずよみがえります。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです」(マタイ二五・四〇)。この御言葉がキリストの愛を知った人々の日常生活においてしっかりと体現されてこそ、いじめや差別の問題に光が差すのでしょう。


【文献】
・リコーナ・T/水野修次郎訳 『人格の教育』(北樹出版、二〇〇一年)
・ルツ・H・ハルミン、シモン・S/遠藤明彦監訳『道徳教育の革新』(ぎょうせい、一九九二年)