いよいよ来日!ウォルター・ワンゲリン ウォルター・ワンゲリンの素顔にせまるQ&A

編集部編

 著作だけからはなかなか見えてこない作家ウォルター・ワンゲリンの素顔。彼の人となり、作品に対する思いなどを質問してみました。

――信仰書をはじめ児童書、詩、小説など様々なジャンルの著作がありますが、作品を生み出す創造力の源泉、秘訣はどのようなところにあるのですか?

 W・私の創造性は、神からの賜物ではないかと思います。また読書や陶芸をしたり、多くの芸術家たち、音楽家、俳優、劇作家、詩人などとの交流を通して養われているようです。

――先頃日本でもベストセラーになった『小説「聖書」』ですが、あなたの作品において「聖書」はどのような意味をもっているのでしょう?

 W・それには二つの答え方があると思います。ある作品は「聖書」に直接関係したもので、たとえば『小説「聖書」』は長篇小説として、詳細に「聖書」について書かれています。その一方で、別の作品では「聖書」についてまったくふれていません。けれどもその作品は、たとえ一般の読者を対象としたものであったとしても、私がクリスチャンであるということによって、クリスチャンの世界観、視点で書かれています。どのような作家でも、自らの信念、世界観から逃れることはできないでしょう(もちろんごまかすつもりがなければですが)。アルベルト・カミユは実存主義者でしたが、彼はその著作を実存主義の視点から書きました。私は聖書で真実と語られていることから離れて書くことはできません。

――ラジオ番組でストーリーテラーとして、物語を語り、それを通してメッセージを伝えようとしておられますね。

 W・私は物語が、そしてそれを語ることが大好きです。子どもの頃からすでに弟や妹に(私の下に6人いるのです)お話をしていました。八歳のときにタイプライターの打ち方を学び、以来、物語を創作したり、詩を書いたりしています。十三歳ではじめて小説を書きましたが、それはただ創作の楽しみによるところが大きかったと思います。
 けれども大人になるにつれて、物語を通して真理を伝えることができれば、それは何と力強いことだろうかと思うようになりました。物語にはすべての聞き手に必要な要素が含まれているからです。感情、感覚、恐れ、愛情、憎しみそして愛です。そして物語は逆に聞く人を形造ります。物語は聞く人の実際に生きる世界となるのです。ですから物語は、真実でなければならないと思うのです。
 イエスは物語(たとえ話)を話されただけでなく、ご自身が物語の中におられ、また今もおられます。そしてイエスご自身が物語(History)なのです。ですからイエスがどのような方であり、また何のために地上に来られたのかを伝える最も良い方法は、彼の物語を語ることなのです。つまりここにゴスペル・ライター(Gospel Writer)の働きがあるのではないでしょうか。多くの教訓を学ぶことよりも、イエスのなさったこと、またイエスに起きたことを語るのです。使徒信条の中にもそうした物語の流れはあるといえるでしょう。

――物語作家としての処女作でもあり、全米図書賞を受賞した『ブック・オブ・ザ・ダンカウ』のテーマはどのようなところから生まれたのでしょうか?

 W・この本の誕生には、多くの複雑な要因があります。ですからここで十分にお答えすることはできません。ただこれだけは言っておきましょう。ある別の本のために登場人物の造形をしていました。けれど結局この計画は失敗に終わりました。しかしこの人物がとても気に入っていましたので、この人物に対抗する最大のものは何だろうかということを考えました。それで人間の神話の中から登場人物を選んだのです。
 皆さんとお会いしたときにもっと詳しくお話ししたいと思います。

――幼い頃から、大変な読書家だったそうですが、印象的な作家、作品に影響を与えている人はいますか?

 W・私は、大学の卒業論文も、修士論文も英文学についてでした。私が影響を受けた人には、チョーサー、トマス・ウルフ、ウィリアム・フォークナー、セネカ、ホラティウス、十字架の聖ヨハネ、ギュスターヴ・フロベール、アン・セクストン、ソフォクレス、ゲーテ、アンデルセン、キルケゴールなど、まだまだたくさんいます。

――牧師としてのご経験もあるそうですが、教会にとって牧師の役割、存在とはどのようなものだと思われますか?

 W・一九七四年から一九八〇年代後半まで小さな教会(会員はほとんどがアフリカ系アメリカ人)の牧師をしていました。私にとって大切な、また同時に大変な働きでした。キリストの福音を伝えるということを中心に様々な活動をしました。心傷ついた人を慰め、聖書や礼拝について教えたり、クリスチャン生活の模範を示したり(私たちがどのように思っていたとしても、牧師はキリストを象徴する目に見える存在であり、教会の純潔の模範なのです)、洗礼を授け、カウンセリングをし、病気の人のために祈り、公共の場で正義のために闘いました。こうした働きは、人間の存在するあらゆる面にふれるものといえるでしょう。
 こうした働きの報いは、彼らが自らの生活に、私を心から迎え入れてくれるということでした。逆に恐ろしいことは、人々に対してイエスを反映することに失敗してしまうこと、そして主を失望させてしまうということでしょう。

――農場を経営され、ときにはトラクターを運転しながら作品の構想を練ることもあるとお聞きしました。

 W・農場は、ずっとやりたいと思っていたことでした。十年前に始めてみて、賢明な決断だったと感じています。農場をやることを通して、神へのまた神の被造物への従順を学びます。私たちは季節や天候、また土壌などを変えることはできません。しかしそこから学び、それらの特徴に合わせて生活していくのです。
 もう亡くなりましたが、私の義理の父親が、教えてくれました。

――最後に、日本の読者にメッセージをお願いします。

 W・私がアフリカで、またアメリカで、ヨーロッパで語りたいことと同じことです。どの国においても人々は同じだからです。私の伝えたいこと、それは唯一の神以外に神は存在しない、そしてこの唯一の神があなたを愛してくださっているということです。 神がイスラエルの人々に十戒を与える前に何とおっしゃられたでしょうか。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20・2―3)神は人々を救われ、ひどい奴隷のような人生から自由へと導かれ、ご自身の愛を証明されるのです。
 神はご自身の民が奴隷から解放されることを望んでいます。けれども偶像の神は、ちょうどエジプトで奴隷であったように人々を奴隷にするだけです。例えば名声、肉体の満足感、所有物など、そうしたものは、あなたを奴隷にする神といえるかもしれません。
 私たちの文化はこのような偶像を愛しています。この文化から一歩踏み出すことはなんと困難なことでしょうか。しかし聖霊の力によって、イエスに歩み寄ることは容易にできるのです。