どうして「神学」は必要なのか? 「神学は初めて」という人のために

内田 和彦
聖書宣教会・聖書神学舎教師会議長

一、神学は不要?

「神学」というと、「牧師や伝道者になる人が神学校で勉強するもので、自分たちには関係ない」と思われるかもしれません。牧師や勉強好きな信徒がする難しい学びという印象を抱かれるかもしれません。「信仰があれば十分」「知識より体験が大事だ」といった意見、「神学など学ばない方がよい。学ぶと信仰がおかしくなある」「頭でっかちになって、伝道できなくなる」という批判に、賛成なさるかもしれません。

確かに神学書の難解さに閉口することは、私もあります。ある種の神学上の議論を不毛と感じたこともあります。知識が増えるだけで、信仰生活に生かされない「学び」もあるように思います。信仰に燃え、救霊に燃えていた若者が神学という「学問」を専攻したために、熱心さを失い、信仰まで失ったという例もありました。

しかし、それはみな神学そのもののせいなのでしょうか。神学を断罪すればよろしいのでしょうか。神学を学びが好きな一部のクリスチャンのものとし、教会のアクセサリーのようなものとしておけば無害で安心、ということなのでしょうか。そうであれば、本誌の企画は無駄で、私も原稿を書く必要はなくなるのですが……。

二、神学を学ぶことの大切さ

しかし、私は原稿を続けます。それは、神学に対する否定的な見方は、むしろ、神学という営みが真の意味で行われて来なかったために生じてきたのではないかと思うからです。

適切な神学教育が欠けているために、私たちの教会はなかなか成長して来なかったとさえ、思うからです。

実際、神学=体系的な教理の学びは、私たちが成熟したクリスチャンになり、力強くキリストを証する者となるために、欠くことのできないものです。神学はキリスト教信仰にとって、「あってもなくてもよいもの」ではなく、なければ信仰が成り立たないと言える程、本質的なものなのです。特に三つの点でそのように言えるでしょう。

 [1] 自らの信仰の確立のために

第一に、聖書の教えの体系的な理解がなければ、私たちの信仰は確立しません。私たちは「大人の」クリスチャンになることができません。

子供は日々の生活について断片的な理解しか持っていません。そこで、親をはじめ大人たちの助けを必要としています。子供が大人になるためには、完全ではないにしても自分を取り巻く状況全体について、ある種の見通しを持たなければなりません。

同様に、成熟したクリスチャンになるためには、神がどのような方で、私たち人間が何者なのか、私たち罪人が救われるとはどういうことなのか、この世界全体に対し、また個々人に対し神がどのような計画をお持ちなのか等、神のみこころの全体を把握することが必要です。

そもそも、「神学する」ことの基本は、聖書の教えに従って生きるとはどういうことなのか、考えることに他なりません。神ご自身のまなざしをもってこの世界を見、人間を見、歴史を見つつ生きる、つまり聖書的な世界観をもって生きる努力と言ってもよいでしょう。

私たちは生れながらの罪人ですから、様々な間違った考え方、歪んだ物の見方をしています。キリストの福音を信じ新生したとしても、それで自動的に神に喜ばれる考え方、生き方ができるわけではありません。クリスチャンとしてふさわしく生きるためには、どうしても、神のみこころについての体系的な理解が必要となります。それが欠けていると、異教的な世界観の枠組みの中に、キリスト教的な要素を取り入れているだけの「キリスト信仰」になりかねません。

 [2] キリストの証人となるために

第二に、聖書の真理を体系的に理解していなければ、福音を確信をもって伝えることができません。「氷山の一角」とあるように、氷の水面に出ている部分はわずか一割程度で残りは水面下にあります。

それと同じように、伝えることはわずかであっても、神のみこころの全体(もちろん、極めることは不可能ですし、私たちの人生全体を通じて教えられ続けることですが)についての一応の見通しをもっていることが必要です。そうでないと、救いを明瞭に説明することもできないでしょう。

私は何度か、主にある兄弟姉妹方を「聖地」に案内してきました。最初は、私自身が見るのも聞くのも珍しく、おおいに楽しみはしましたが、皆さんに十分に説明してさしあげることができませんでした。しかし、回を重ねるにつれ、それぞれの地が何があるか前もってわかり、聖書の教えと関連づけて旅の全体像を描けるようになりました。その結果、余裕をもって、状況に応じてお導きすることができるようになりました。同様に、キリストを信じて生きることの全体像を聖書の光のもとに描いていればこそ、確信をもって伝道できるのではないでしょうか。

 [3] 異なる教えを見分けるために

パウロは、エペソの教会の長老たちに語った別れの説教(使徒20章18~35節)で、「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい」と命じています。それはパウロが去った後、「狂暴な狼が……中にはいり込んで来て、群れを荒らし回る」ことや、内部からも「いろいろな曲がったことを語」る者が出て来ることが予想されたからです。

しかし、パウロは「神のご計画の全体を、余すところなく」教えて来たので、長老たちにその教えを思い起こすよう勧めることができました。

実際、教会はいつも曲がった教え、異端的な教えに悩まされ、振り回されてきました。そのようなものに動揺させられることなく、力強く教会形成をして行くためには、パウロがしたように、神のみこころの全体を知ることが必要なのです。何が正しく何が間違っているか、また、何が重要なことで何がそうでないかを判別するためには、神学が欠かせないのです。

 

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