やめられないとまらない聖書通読 バランスとこだわりと(後半)

通読くん
下川 友也
同盟基督教団 日高キリスト教会牧師

甘美なみことばの時間

 Sweet hour of prayer  Sweet hour of Bible-reading
 たのしき祈りよ、たのしきみことばのひとときよ
 (『聖歌』二五四番をもじって)

 私も初めから、このような境地だったのでありません。最初は努力とか、ある種義務感、「そうすべきである」という思いからであったことは否めません。でも、今は大好きな時間です。

 とはいえだれもが、自分ひとりの、静かな生活空間、また生活時間を、たやすく持てるわけではないでしょう。でも、なんとか工夫して、これを確保しましょう。信仰人生にみことばと祈りとは何よりも大切なことです。

 自己中心で、せっかちな私にとって、まず聖書を開いて静まることは、「私でなく主が」という生き方の証しです。二十四時間全部が本当はすべて神のものでしょう。けれども、そのことの日々の実践は、朝なり、夕なりの時の聖別にかかっています。その時間をたっぷりとれるかどうかは、私にとっては本質的な重大事です。

 なれてくるときっと、それはすべてのクリスチャンにとってそうなるのです。だんだんと賛美歌作者の心に近づいてゆきます。真に祈りは真にみことばは甘美な時である、と。

 私の現在の、聖書通読月二回のペースは、無理をしているわけでなく、静思の時を楽しんで実行しているうちに、どんどんそうなってきたもので、いささかも無理や気張りはありません。

 おもしろいことに、今でも聖書を読み始めようとするときには多少の抵抗があるのです。読み進むうちに、ぐんぐん上昇気流に乗ってゆくという感じでしょうか。この感覚は不思議です。

 最初のバランス感覚のところで言及すべきであったかもしれませんが、私の信仰生活の欠点は、神学書や一般書の読書量が少ないということです。聖書通読を習慣づけ始めたころは、まだペースがゆるいぶん、一般書を読むことはだいぶできました。

 しかし、このごろは聖書の読みすぎ(?)かもしれません。ただ、聖書そのものがあまりにもおもしろいので、どうしても他の書籍は聖書にくらべて興味が減退してしまうのです。しかし、読むべきものは、確かにいろいろあると思うので、このあたりは、私の今後の課題です。でも、くりかえし言います。聖書って本当にすばらしい。おもしろい。深い。毎回新鮮です。

交わりとのバランスも

 私は大勢の人が集まるところでも、いつでも聖書を開ける状態にしており、ちょっとでも時間が空くと目を落として数ページ読んでいます。ときには、一段落、いや一節ということもあります。

 身近で生活し、このごろは大抵の場所に一緒に行く妻からは、あなたは傍若無人だ、と言われます。少しはそれを認めます。けれども、人との会話を避けているわけでもなく、嫌っているわけでもありません。ちょうど、日高、北海道の春夏秋冬を楽しむのと似て、人々との語らい、交わりは、「第三の聖書」であるとさえ思っています。

 ことにも、日高の地に来て、定年を迎えた私たちでさえ若いと言われるほどの高齢者のなかで、人生の先輩に耳を傾けて聴くことはたくさんあります。

 人々との交わりの中で、聖書の読み方が深められます。また、よく聴くということを通して、聖書に記されている救いを、福音を、やがては聴いてもらうことになるわけです。

 私は牧師、神学教師を四十年近くやって来て、語ることが多く、聴くことが少なかったと反省します。その意味で、人々との交わり、人々に聴くことを大切にしていこうと考えます。そして、それを考えるといよいよまず自らが神様に聴く(つまりはみことばを読む)ことの大切さをつくづく覚えているのです。