わが家の小さな食卓から
愛し合う二人のための結婚講座
第13回 助け手として悲しみに寄り添う

大嶋裕香
 1973年東京生まれ。宣教団体でキリスト教雑誌の編集、校正を手がける。99年にキリスト者学生会(KGK)主事の夫と結婚後、浦和、神戸、金沢と転々としながら年間100~200名近い学生、卒業生を自宅に迎える。KGKを中心に、夫と共に結婚セミナーで奉仕。その傍ら、自宅でパン教室、料理教室を開き、子どもたちにパン作りを教えている。13歳の娘と10歳の息子の母親。

わが家の食卓でしている結婚前後の学びでは、「悲しみことば(悲しみを感じることばや行動)や「家族の悲しかった思い出」についても分かち合う時を持っています。第二回で取り上げたように、あまりに思い出すのにつらい出来事を無理に話してもらうことはありません。しかし、安心感のある交わりの中で、今まで蓋をしてきた悲しみを取り出し、伴侶に受け止めてもらうことを経験するカップルも少なくありません。
皆さん少なからず親や兄弟、親戚との関係で悲しい思いをしてきたという経験はあるでしょう。また、学校、職場などの人間関係や、交際していた人との関係において傷ついてきた過去を持つ方もあるでしょう。
私たち夫婦にも長年蓋をしてきた悲しみがありました。お互い話すのに十年以上かかったこともあります。私にも、あまりにつらい出来事だったので、夫に話そうとしても話せなくなってしまうという出来事がありました。夫はいつも「全部話さなくていいよ。そのままで受け止めているから。話せるようになったときでいいからね」と寄り添っていてくれました。
しかし、結婚して十年以上たったときに、ふとしたきっかけから、ずっと抱えてきたことを夫の前ですべて話すことができたのです。心がすっと軽くなりました。時間はかかりましたが、結婚という愛と信頼と安心の関係の中で、主によっていやされることがあるのだ、という経験をしました。
一方、夫にも抱えていた悲しみがありました。ある結婚セミナーの講師を夫婦でしていた時のことです。参加者とともにさまざまな質問を考えていくセッションの途中で、話しながら夫が突然涙を流し始めました。そんなことは初めてだったので、隣にいた私はびっくりしてしまいました。
「僕は、怒りという感情のコントロールについてずっと苦しんできました」。涙を流しながら、結婚セミナーの参加者の前で悲しかった体験を話す夫。その後自由時間になったので、私たち夫婦は集会室を出て、施設の庭を歩くことにしました。ちょうど紅葉の時期だったことを覚えています。秋風が優しく頬をなでていきました。
「いやあ、あんなふうに自分のことを話すなんて思いもよらなかった」と、本人もびっくりしている様子でした。私は夫に寄り添い、歩きながら言いました。「あなたはこうして話しながらいやされていくのね」。すると夫が私に向き合ってこう言ったのです。「このことについて、自分のことを助けてほしい」。そう言った彼の真実のことばに、私は心から感動したのです。そして、「ふさわしい助け手」になるのだ、と思いました。
「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」(創世記2・18)と、神様はアダムのところにエバを連れてこられました。この「ふさわしい」とは、「合う」「面する」「向かい合う」という意味です。そして「助け手」とは、「神からの助け」という場合に用いる「エゼル」というヘブル語が使われています。
実に「助け手」とはお手伝いやヘルパーではなく、人格的に向かい合うパートナーであり、伴侶が神様に向き合うことができるように「助ける」存在――。私たちが結婚セミナーにおいて何度となく話してきたことばが、このときほど心に響いたことはありませんでした。
また、夫はこんな話もしてくれました。「自分がトラブルを抱えていわれもなく責められたときに、裕香の母教会の牧師先生のことばを教えてくれたことがあったよね。あのことばには本当に助けられた」と。それは、「責めている側にイエス様はいない、責められている側にイエス様はいらっしゃる」ということばです。私自身も何度となく助けられ、励まされてきたことばを夫にかけたことがありましたが、とてもうれしかったそうです。

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私たちの人生には悲しみがあります。苦しみ、痛みがあります。しかし、悲しんでいる人のそばにこそ、イエス様が寄り添ってくださっていること。悲しみの時に寄り添い、助けてくれる伴侶が与えられていること。どんなに大きな力でしょうか。時間がかかるかもしれません。しかし、結婚生活の中で悲しみがいやされるということはあるのです。もはや一人で悲しみを背負うのではなく、二人で分かち合うのです。
「ふたりはひとりよりもまさっている」(伝道者の書4・9)