わが父の家には住処(すみか)おほし
北九州・絆の創造の現場から 第3回 キリスト教的背景

奥田 知志
日本バプテスト連盟 東八幡キリスト教会 牧師、NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長/代表

 先日、新聞記者の方からこんな質問をされた。「奥田さんがホームレス支援をされているキリスト教的な背景は何ですか」。昨今テレビや新聞の取材をしばしば受けるが、キリスト教や信仰について質問されることは滅多にない。だから少々嬉しい気持ちになったが、半面質問の重さにたじろいだ。

 私にとってホームレス支援の背景にはみことばやキリスト信仰があることは間違いない。質問された方が期待されている答えが「キリスト教的な無償の愛」であろうことは容易に想像がついた。「そうです。キリスト教は愛の宗教です。イエス・キリストは隣人を愛せよと教えられています。しかもその愛はアガペーと呼ばれる無償の愛とか自己犠牲の愛と言われるものです。マザー・テレサをご覧なさい。自分を顧みずただ貧しい人に仕え与え続けた。それがクリスチャンというものです。それ故に私はホームレス支援を続けているのです……」などと答えることができたなら「愛の宗教」の面目も立ったであろう。でもそんな風に答えることはできなかった。


 確かにクリスチャンは「アガペー(ギリシャ語):無償の愛」を常に意識すべきだ。自己愛に完結してはならない。しかし私がホームレス支援現場でしがみ付くように認識する「キリスト教的背景」は実のところそのようなことではない。

 夜の公園や商店街の片隅で寝るおやじさんたちに声をかけて回る。「大丈夫ですか」「がんばってください」「寒いでしょう」「お体大切に」。決していい加減に言っているわけではない。心から心配しつつ声をかけ夜の街を歩く。しかしその数時間後、私はちゃっかりあたたかい部屋に戻り、子どもたちが眠るベッドにもぐり込む。そして、何事もなかったように眠りにつく。眠れない夜を過ごすおやじさんたちを路上に残したままで。毎度布団で考える。「私は何をやっているんだろう」。ついさっきまでいかにも心配げに、いかにも親身そうに声をかけていた私は、今は布団に眠る。そこには無償とか、犠牲とか言えるもの、すなわちアガペーなどはひとかけらもない。


 私はパトロールの度にアガペーを実践しているのではない。パトロールの度に自分がいかにアガペーから程遠い存在であるかを思い知らされる。そして、その時、私は「キリスト教的背景」にたどり着く。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(口語訳・ルカ二三章)。イエスは十字架上で自分を殺す人たちのために祈られた。アガペーは「無償の愛」ではあるが、それは「神の愛」を指す言葉だ。

 「アガペー」は、私のような不完全で不徹底、結局は自己本位に生きている人間をも赦す「神の愛」を示している。「何をしているのかわからない」とは他ならぬ私のことなのだ。かのマザー・テレサもアガペーを実践した人ではなく(当然私などとは比較にならないほど徹底しておられたが)アガペー(神の愛)によって、やりきれない自分を赦され、励まされ、そしてそれでもなおキリストに従う道を歩み続けておられたのだと思う。

 「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」(口語訳・Iコリント一三章)。「愛の賛歌」は、間違っても「人間の愛かくあるべき」と読んではいけない。それは「キリストの愛」を明確に示したものだ。キリストのようには決して愛せない私たちが、寛容で、情け深いキリストの愛によって赦され「互いに愛し合う」生き方へと召される。

 「私にとってのキリスト教的背景とはそういうことです」とその記者の方にはお答えした。記事にはならなかったが、それが本当のことなのだ。