エステル記を読む前に エステル記を読むとき

斉藤眞紀子
横田早紀江さんを囲む祈り会世話人
日本同盟基督教団 麻布霞町教会員

 エステルはヘブル名ではハダサ、星という意味のペルシヤ名である。名前から美しい。早くに両親をなくし、いとこモルデカイに養育されたが、このおとめは、姿も顔だちも美しかったと聖書に書かれている。容姿だけが美しかったのではなく、「モルデカイに養育されていた時と同じように、彼の言いつけに従っていた」(二・二〇)とあるように、気立てのよいおとめだった。

 王のために多くのおとめたちとシュシャンの城に集められたが、ほかのおとめたちがあれこれ願うものをもって王宮に入っていくのに、王の宦官ヘガイの勧めたものの他は何一つ求めなかったエステルの何というつつましさ。きっと神から与えられた気品も備え、彼女を見るすべての者から好意をもたれる素敵なおとめだったと読みとれる。このおとめエステルが、アハシュエロス王の時代、神のふしぎな導きにより(エステル記には神ということばは一語も出てこないのであるが)、ペルシヤの国でユダヤ人が滅ぼされそうになったとき、王妃として神の御業に用いられたのである。

 アハシュエロス王をとりまく、おのれの栄誉や保身のために動く男性たち、ペルシヤ王の権威を絶対的なものにし、男性優位の社会を築こうとしていたその中にあって、神のご計画は、モルデカイやエステルにとって不本意またマイナスになるのではと思えることをその反対へと展開されるのである。

 王のふたりの宦官による王暗殺計画を知ったモルデカイは王妃エステルにこれを知らせ、彼女はモルデカイの名で王に告げる。が、この時は、王からの報いはなかった。その後、王はハマンを登用する。モルデカイがハマンに対し膝もかがめず無視していることに腹をたて、その勢いでユダヤ人すなわちモルデカイの民族を根絶やしにしようとするハマン。モルデカイをかけるべく高い柱を立てさせ、自分があとでそれにかけられるのも知らずに、われ以外に王の栄誉を受ける者なしとますますふんぞり返る。この間のモルデカイの危機感は、そしてシュシャンの町の混乱は如何ばかりであったことか。

 モルデカイからの王への嘆願を一度は断ったエステルだったが、モルデカイの「あなたがこの王国に来たのはもしかするとこの時のためであるかもしれない」ということばによって、ただ信仰による勇気をもち、いのちをかけて自らすすんで出ていくのであった。

 拉致被害者横田めぐみさんの母早紀江さんとエステル記とが重なるとして、今まで二、三人が説教で語られた。

 いろいろのところで早紀江さんは信仰を、そして拉致被害者の救出はもちろんのことであるけれど、自分を神としているひとりの独裁者の下で一般の国民がどんなに苦しめられているか、死をもってしか出ることのできない場所に閉じ込められている多数の人々のその解放を願い語っている。

 今から三年ほど前のこと、国民大集会が九段会館で行われた。会場に入り切れない人々が四、五百人ほど外の広場にいた。そこにあいさつに来た有名な某国会議員がマイクを握りしめて大声で言い放った。

 「今夜、この靖国の英霊たちにまもられてこのような大集会ができることは何とも喜ばしい……」

 続いて横田早紀恵さんはよくとおる声で「私は聖書の神を信じています……」とはっきり叫んだのである。このような場でのこの叫び! もっとも辛い、悲しい、苦しい立場にありながら何と勇気のある行動であろうか。

 エステル記を読んで私はまたその夜の早紀江さんを思い出すのである。自分を誇示することなく信仰をもって、忠実に、黙ってその置かれたところに立ち、為すべきことを為そうとするその姿を神は用いられるのだと。主は私たちの思いを超えて必ずや拉致の解決をしてくださることを確信し、祈りながら待っている。