ディボーションって本当に必要? 「しなければならない」から「できる」恵みへ

羽鳥頼和
日本福音キリスト教会連合 自由ヶ丘キリスト教会牧師

「ディボーションをしなければいけないのにできない」という挫折感や罪悪感をもったことがある人は決して少なくないと思います。だからといって「ほかの人もできないのだから自分もできなくてしょうがない」というわけにはいかないのが難しいところです。やはりクリスチャンは、ディボーションが必要なのです。

しかし実際には、ディボーションをしていても聖書の意味がわからないし、毎日することは難しいと怖気づいてしまったり、あきらめてしまったり、心が萎えてしまったりしてしまうものです。そのうえ、「しなければならない」ということばが、私たちにプレッシャーを与えていると思います。ディボーションができなければ、クリスチャンではないとでも言われているような圧迫感さえ感じてしまいます。

「しなければならない」について考える

実は、イエスの時代のユダヤ人も「しなければならない」ということにがんじがらめに縛られて苦しんでいました。毎日毎日、さまざまな掟に縛りつけられていたのです。それは律法学者によって定められた掟でした。安息日に禁止されている「労働」だけで三十九もありました。多くの細々とした掟を守らなければいけないと考えていたユダヤ人たちは、掟を守ることに疲れ果てていました。

そんなユダヤ人にイエスは次のように語られたのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ一一章 二八、二九節)

掟が重荷となっていたユダヤ人に向かって、「わたしのところに来なさい」と言われたのと同様に、ディボーションができず挫折感と罪悪感にさいなまれている人に、イエスは「わたしのところに来なさい」と招き、そして「休ませてあげます」と言われるのです。

この「休み」とは「たましいの安らぎ」のことです。ここでイエスは、「休む」ことを勧めているのではありません。むしろ、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と勧めます。「そうすればたましいに安らぎが来ます」と言われているのです。

クリスチャンとは主の掟を学びながら、神のみこころに従っていこうとする者です。しかしそのように生きることは、私たちには重荷となっています。とても自分の力ではできないものなのです。

そこでイエスは「くびきを負う」という言葉をお用いになりました。「くびき」とは、二頭の牛などをつなぐために用いられる道具です。二頭の牛をひとつに結んで大きな力を発揮させて土を掘り返すのです。イエスは私たちとともにくびきを負って歩もうとしてくださるのです。そしてまさにイエスとともに歩むことが、たましいに安らぎをもたらすのです。

ディボーションにも、このみことばが生きてくると思います。ディボーションを「しなければならない」と考える者は、イエスのところへ行くべきです。ディボーションこそ、私たちがイエスのもとに行くことであり、イエスとともにいることであり、イエスから学ぶことなのです。

「できる」恵みへ

また、神は命令だけではなく恵みのみことばを与えてくださいます。申命記に次のような約束があります。

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。…まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」(申命記三〇章一一節、一四節)申命記三〇章は、約束の地に入ろうとするイスラエルの民に向かいモーセの三番目の説教が記されています。二番目の説教(五章~二六章)では、これから始まる新しい地での生活の規定が語られていました。そこには「~せねばならない」という命令がたくさん出てきます。そしてその命令の後でこの三〇章一一節や一四節が語られたのです。

神は、多くを命令しますが、それはイスラエルの民にとって難しすぎるものではなく、彼らに神の命令を行うことができると約束しているのです。神は私たちができないことを命令しません。むしろその命令を行うことができるように、すべてのことを働かせてくださるのです。

この恵みの約束を忘れてしまうと、人は律法主義になってしまいます。「しなければならない」に縛られて神によって成し遂げられる機会を自分から逃してしまうのです。

恵みの再確認

ディボーションを行うことによる恵みはいろいろあると思いますが、私は「神との交わり」こそディボーションの恵みだと思います。ディボーションという言葉には「献身」とか「専心」という意味がありますが、私はディボーションを「個人礼拝」だと思っています。礼拝をささげることによって与えられる神との交わりこそ、ディボーションの恵みなのです。

また、ディボーションの恵みのひとつに、「自分がディボーションをできるようにされた」ということがあります。私たちは、神の恵みによってイエス・キリストを信じて救われ、ディボーションをすることができる者にされたということを忘れずに神に感謝しましょう。

「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇一六章一一節後半)この喜び、楽しみを味わうことができるのがディボーションなのです。

継続の秘訣

ある先輩が「家庭礼拝を続ける秘訣は止めないこと」と言われました。あたりまえのことですが大切なことです。私たちは、救われたことによって神との関係が回復し、神と交わりをもつことができる者になったのです。ぶどうの木であるキリストにつながっていることを覚えることがディボーションなのです。この関係をやめることはできません。

もうひとつの継続の秘訣は神を愛するという動機です。愛している人といつもいっしょにいたいと思うように、私たちは愛する神とともにいたいと切望するからこそディボーションをするのです。そしてディボーションは、愛する神とともに成していくものなのです。

さあ、今年も主にあってがんばりましょう。

 

デボーションガイドmannaは下記から