ブック・レビュー 「使徒信条」のもつ豊かな恵みをゆっくりと味わう

 『わたしの使徒信条 』
大頭 眞一
日本イエス・キリスト教団 明野キリスト教会牧師

礼拝ごとに、会衆が声を合わせて告白する「使徒信条」。教会に初めて行ったとき、その光景に驚いた人もいたかもしれません。また、文言をもうすっかり覚えてしまった人も、なんだかいま一つピンとこないということがあるかもしれません。
多くの人は使徒信条の内容について、受洗の前や後で学ぶわけですが、そうした知識を得ることと、ピンとくるというのは、別のことのようです。
藤本満先生の今度の本を皆さんより一足早く読ませていただいた私は、なぜ使徒信条がピンとこなかったかが、ピンときました。
ウェスレーについて述べているところで、「使徒信条の中身については深く理解していても、その信仰告白が自分のものとなっていない」(七頁)と書いているのがそれです。
皆が「使徒信条」を自分自身の告白とするために、藤本先生は高津キリスト教会の礼拝メッセージで使徒信条を取りあげました。全部で二十三回、終わったのが去年の八月ですから、まだできたてと言っていいでしょう。目の前にいる、信仰の仲間である兄弟姉妹たちを愛し、祈りのうちに心を込めて語りかけた生きたことばを読むうちに、ふっとその場に座っているかのような感じをもちました。
ピンとこないことの筆頭は、マリヤの処女懐胎とイエス・キリストの復活でしょう。
教理の道筋の明快さとともに、聖書の説き明かしの確かさと例話の美しさで有名な藤本先生です。六章を読んでください。処女懐胎への戸惑いは、「聖霊によって」神の子どもとされる喜びに変わるでしょう(一〇五~一〇七頁)。復活を語る11章の女の子と父親とスズメバチの物語(一五七~一五八頁)は、切ないほど胸に迫ります。
使徒信条を告白することは、実にすばらしいことです。それは、キリストの救いと復活の恵みを、二千年経った今も私たちが「生きた事実」(八、九頁)として体験していることを、喜び祝うことだったのです。