ブック・レビュー 『新版 キリストの最期』
主の裁判と死についての瞑想

『新版 キリストの最期』
関野 祐二
聖契神学校校長

十字架上のキリスト像をありありと眼前に描くことができる

 再版を心から願っていたひとりとして、新装のみならず訳も改訂された本書が手元に届いたときは、夢のような喜びに満たされ、出会いの場面へと思いは飛んだ。私事で恐縮だが、二十五年前、教会の信徒宅書棚で本書のハードカバー版を見つけて読みふけり、その後すぐに購入した。主イエスの受難とは何であったのか、周辺事情も含めその真意を決定的に教えられた、得難い体験を思い出す。

 四福音書は各々、記者の描きたいイエス像があり収録された記事も書き方も異なるので、ここから主イエスの受難をまとめ上げるには、単に四つを合成するのではなく、福音書記者の意図を文脈に沿って慎重に汲み取るデリケートな作業が求められる。この技に関し、著者ストーカー以上に優れた書き手を評者は知らない。読者は、今まで自分がおぼろげにしか見ていなかった十字架のキリスト像を、ありありと眼前に描くことができるようになるだろう。

 今回の新版を旧版と並べて読み返し、訳者が実に細かく手を入れているのに驚いた。直訳をなめらかな日本語に、あいまいな代名詞(例「彼は」)を明確な固有名詞(例「イエスは」)に替え、不要な代名詞を削った部分も随所にある。ここまで洗練された、格調高い日本語訳があってこそ、本書の比類なき価値はより増し加わったと言えよう。

 内容で秀逸なのは、総督ピラトの心理描写と、主イエスの十字架上のことば解説である。第四の「わが神、わが神……」から紹介したい。

 「これは祈りである。(中略)『わが神』と呼びうる人は、決して見捨てられない。底なしの深みにはまった人が、絶望的になって、最後の力をふりしぼって前進して、揺るがぬ大地に足をつけるように、イエスも、絶望の叫びをあげるそのことによって、絶望を克服された。神に見捨てられたと感じて、神の腕の中に飛び込んでいかれた。すると、神の守りの御手は暖かく彼を抱きかかえた。」(二一九―二二○頁)