ホーリネス弾圧事件からの継承 宗教弾圧の家族の手記

教会堂
谷中さかえ
基督聖協団 千葉教会 牧師

 日本ホーリネス教団の元監督・中田重治牧師が、一九三九(昭和一四)年九月二四日に召天された後、私達谷中一家と竹内かつ先生(女子寮舎監)は、東京聖書学院近くの成子坂下に大きな家を借り、きよめ教会と改称して牧会していました。

 一九四二(昭一七)年六月二六日、早天祈祷会をしているところへ五、六人の刑事がドヤドヤと入って来て、会計簿と聖書、教会関係書類等を全部押収し、夫・谷中廣美牧師に召喚状を示して、「すぐには帰れませんから」と告げました。谷中が洋服に着替えるために二階に上がると、刑事二人が部屋まで付いてきて、私とは一言も語ることなく連行されました。

 その時一通の電報が鹿児島教会から届きました。「シュジンケンキョサルイサイフミ」の電文を見て、全国の教会に関わっていることを察しました。

 早速、上海きよめ教会の父・森五郎牧師に、「チチニカワリナキヤ」と電報を打ちましたが、何の返事もありません。海外は七月一日に検挙が行われ、森五郎牧師は上海領事館警察署に一週間留置された後、七月八日に船で二人の刑事に監視されながら日本に護送され、東京警視庁に十ヶ月間留置されました。

 近くの町角に交番があって、「上海から森五郎が警視庁特高課に来ているから、浴衣、下着、食事を持参するように」との伝言がありました。早速、新宿・二幸(食料店)で父(森五郎)の好物を購入し、警視庁四階の特高刑事室へ行きました。

 室内では後ろ向きに座っている白麻の洋服を着た父の姿を見ましたが、一言も語ることは許されないで、上海から持って来たボストン・バックと着ていた洋服を持って帰宅しました。バックの中身は上海に残った母(森まつよ牧師)から孫達への心づくしの、靴下、下着、パンツ、石鹸、チョコレートなど、内地では買えない品物が入っていました。上海からの護送は割合ゆるやかであったと思います。

 毎日、食事を運ぶように言われて一週間続けました。刑事部屋の東の隅に車田秋次師、西の隅に父が座っていて、何とも異様な二人の姿でした。

 ある日、「次の弁当は通知があるまで待て」と言われて、一カ月間中止していましたが、その間何があったのでしょうか? 検挙の内容は「治安維持法違反容疑」で、キリストの再臨、イスラエル問題、スパイ嫌疑であったと思います。

 米田豊師の手記に、「森五郎師と車田秋次師と私の三人は、取り調べを受ける以外にも、手記をしたり雑用をさせられたが、いつもニコニコしているので監視の巡査が感心していた」とあります。

 一九四三(昭一八)年九月一三日、母が上海から父に面会に来ました。ちょうど三男・尚(たかし)が東京歯科大学を卒業し、翌年一月に陸軍部隊へ入隊することが決まっていましたので、母と一緒に三人で面会に行きました。

 霞ヶ関の警視庁の面会所で呼び出しを待っていて、ふと室外に出た時、裏口の方から編笠を深く被り、手錠をかけられ、素足で雪駄の草履を履いて、数珠つなぎに歩いてきた七―八人の囚人服の人達を見ました。それは何とも変わり果てた牧師達の姿でした。その中に父・森五郎の姿がありました。私にはあの先生、この先生と推察することができました。

 そのうちに呼び出しがあり、予審判事の部屋に三人で入りました。その時の父の顔色は臘人形のように白く腫れあがり、その状態を見ただけで、留置場の生活がどんなものか想像がつきました。

 十ヶ月の留置場生活から東京拘置所に移される時、監視の巡査に「君がいなくなると寂しくなるよ」と言われたと、迎えに行った谷中が聞き、後日「森五郎の存在はいかに大きな平安を人々に与えたか。良き証し人であった」と語っています。

 父が拘置所へ送られる時、同乗した警察官が、九段周辺を通って車外を見て、「これがこの世にあって、桜の見納めだぞ」と言われたそうですが、十か月に及ぶ拘置所生活も、森と谷中の実家、そして信者の皆様からの愛のプレゼントでどんなに大きな慰めを頂いたことでしょうか。

 普通人の独房の日常は空虚と無聊に苦しむそうですが、父は「一匹の蝿も友達であったよ」と言い、瞑想すると、「私は、あなたのことばを心にたくわえました」(詩篇一一九・一一)と、聖句が次々浮かんで大いに慰められたと語りました。

 一九四四(昭一九)年二月二九日、金二十円の保釈金を持参して、弁護士と夫が迎えに行き、父は翌日、東京都・拝島村(現・昭島市)の三井家の別荘であった啓明学園内の私達の住居に帰って来ました。

 母は父が検挙された後の三年余、落花生バター製造工場で働きながら、子供三人の生計を支えて忍従の生活を続けました。

 その年の十二月、母と姉妹たちが上海から引き揚げて来ました。九ヶ月ほど前に保釈になっていた父は、夜十時ごろ立川駅へ出迎えに行きました。防空頭巾、国防服、ズック靴の乞食のような老人姿で、下車した家族に黙って近寄り、末娘の黎子のリュックサックに手をかけると、「お母様、泥棒よ」と叫びました。

 それが何年ぶりかで再会できた親子の苦難の日の一幕でした。