ミルトスの木かげで 第1回 姉妹ゲンカ

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

わが家の次女みん(十七歳)と三女ま?や(十四歳)は、お互いの持ち物、特に衣類をめぐってケンカをすることが多い。たいていは、どちらかが持ち主の断りなしに勝手に着て出かけた、というものだ。お互いさまなのだから仲良くすればいいのに、どういうわけか毎回もめる。
「ま?やが私のTシャツを勝手に着て、しかもシミをつけて、クシャクシャのまま、ほったらかしてある!」
「お姉ちゃんが私のサンダルを勝手に履いて出かけちゃった! それ、私が今日履くつもりだったのに!」先日の日曜日もそうだった。
礼拝メッセージは結婚について。最後に、結婚の誓いを更新したいと願う夫婦は前に出て皆で一緒に祈りましょう、という招きがあった。それで私と夫は前に出て、結婚の誓いを更新し、感謝に満たされて座席に戻ってきた。娘たちにも祝福してもらうことを期待しながら。
ところが、座席に戻ると、次女と三女がにらみ合っている。長女は二人からちょっと離れたところに座り、困った顔をしている。
「一体どうしたのよ?」
「ま?やが、私のジーンズ勝手に履いてるの!」
妹を指差す次女。
「いいじゃないの、ジーンズくらい」
「私がていねいに、『私のなんだから、家に帰ったらすぐに返してちょうだい』とお願いしたのに、ま?やは『別にいいでしょ! ほっといてよ!』って、怒りだしたんだよ!」
ま~やを見ると、口をキッと閉じ、悔しそうに目に涙をうかべて床を凝視している。次女は非常に口が達者で、理屈っぽい。彼女と口論になると、必ず言いくるめられる。いっぽう、三女はどちらかというと口べただ。姉に慇懃な口調で責められ、言いたいこともうまく言えなくなり、つい怒鳴ってしまったのだろう。どっちもどっちなわけだが、この日は次女の態度が気になった。自分は正しいという確信に立っているので、妹に対して容赦がない。そして、親も当然自分の側に立つべきだと思っている。
家に帰る車中で、次女のそんな態度をたしなめると、「悪いのはま?やなのに、どうして私が悪者になっちゃうの?不公平だ!」と食ってかかる。
「お母さんはどっちが正しいとか、悪いとか言おうとしてるんじゃないのよ。家族が愛し合って暮らしていこうと思ったら、それよりもっと大切なものがあるんじゃないの? 友達との関係でも、自分の正しさだけを主張するなら、ほかの大切なものを失ってしまうかもしれないでしょ?」
次女の良いところは、怒っていても親の言葉には耳を傾け、それなりに受け入れてくれること。このときも、面白くなさそうではあったが、それ以上妹を責めるのはやめてくれた。
家に着くと、三女はまだ泣いていて車から降りようとしなかったが、次女はすでに機嫌がよくなっていた。私が三女のことを気にかけつつ、昼食の支度を始めると、次女はさも「私はママと仲良し!」と言わんばかりの笑顔で「ママ、いつも良いお母さんでいてくれてありがとう!ママ大好き!」とかなんとか、可愛いことを言った。この子は私にはいつも可愛いことを言うのだ。彼女なりに自分の怒りを鎮め、ポジティブに対応しようとしているのはわかる。それは評価する。でも、私の心は悲しかった。
この子には母の思いがわからないのだろうか。そんなに母を好きならば、車の中で泣いている妹のところに行って、和解してはどうか。母に可愛いことを言う前に、妹に「言い過ぎて悪かった」と謝って、慰めてきてはどうか。そのほうが母はずっとうれしい。
イエスは、「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイ5・23、24)と言われた。天の御父も、主にある兄弟同士がいがみ合っているならば、その状態でいくら捧げものを持ってこられても、「主よ、あなたを愛します」と言われても、少しもうれしくないに違いない。
でも、私も同じことをしているかもしれない。自分では神様とラブラブのつもりでも、兄弟姉妹をさばいたり、ないがしろにしたりすることで、御父を悲しませていないだろうか。次女の姿が私自身とだぶった。主よ、私を探ってください。私のうちに、兄弟姉妹に対する愛を増し加えてください。そしてその愛を、私からあなたへの捧げものとして差し出せますように……。