ミルトスの木かげで 第13回 霊的形成

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

数年前、私の教会に「霊的形成牧師」という肩書きの牧師が就任した。聞き慣れない肩書きだが、信徒の霊的形成を促す働きをメインの仕事とする。
彼が就任したとき、私はちょうど『心の刷新を求めて』(ダラス・ウィラード著/あめんどう)という霊的形成に関する本を翻訳したばかりだった。ウィラードは、教会をあげて信徒の霊的形成に取り組むことの重要性を強調していたのだが、この牧師が就任し、うちの教会でもそういう取り組みが始まることになった。

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そもそも、「霊的形成」とは何か。パウロはガラテヤの教会に、「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4・19)と語ったが、この〝私たちのうちにキリストが形造られていくプロセス”が「霊的形成」と言える。アズベリー神学校のロバート・マルホーランド・ジュニアは、霊的形成を「他者のために、キリストに似た者へと変えられていくプロセス」と定義した。
それは第一に、瞬時にして変えられるのではなく、時間をかけて徐々に変えられていく「プロセス」であること。
第二に、自分の意思の力や努力で頑張って変わるものではなく、聖霊主導で「変えられていく」ものであること。
第三に、自己実現のための変化ではなく、「キリストに似た者」への変化であること。第四に、自分と神さまの個人的な関係を深めるというプライベートなものではなく、「他者のため」であること。
この四つめのポイントは、私にとって特に「目からウロコ」だった。私はこれまでも霊的成長ということをずっと求めてきた。キリスト者なら誰でもそうだろう。神さまの愛をよりよく知り、主にあって成長させられたい、いつも主のみそば近くを歩みたい。私と私の神さまとの親密な愛の関係をもっと深く、もっと豊かに……。つまり、霊的形成とは、私の霊的成長のためのもの、どこかでそんなふうに思っていた。
しかし、私たちは共同体の中に生きるよう召されている。共同体の中で他者と共に生きている私たちが、あらゆる事柄を通して「御子のかたちと同じ姿」(ローマ8・29)に変えられていくなら、それはその共同体のほかのメンバーにとって何を意味するだろうか。ここで言う「共同体」とは、教会などの主にある群れだけを指すのではない。家庭に始まり、自分が住む町、都市、国、また、所属する世俗の各種団体(会社、学校、クラブ、その他)も含まれる。もし私が、よりキリストに似た者に変わっていくなら、それは私の夫や子どもにとって、どれだけ素晴らしいことだろう。よりキリストに似た者へと変えられていく私が隣人であるなら、それは近所の人たちにとって、またこの町のPTAや自治会にとってどんなインパクトがあるだろう。私がキリストに似た者に変えられるのは他者のため、という概念は、私の物事の見方に新しい視点を与えてくれた。

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霊的形成へのアプローチの方法はいろいろあるだろうが、私の教会では何よりもまず、このプロセスに注がれる「神の恵み」が強調される。成長には時間がかかるし、失敗もつきもの。過去にどんな過ちがあろうとも、どんな失敗をしでかそうとも、神の恵みは「あなたはこれで終わり」とは言わない。
しかし、ただ恵みがあるというだけでは、キリストに似た者へとは形成されない。ここで「霊的修練」と呼ばれるものが必要になる。ヘンリ・ナウエンは、霊的修練とは、神が私たちに働きかけることのできるスペースを作るための努力のことだと言った。私たちの心や思いは、放っておくとすぐに神以外のいろんなもの(思い煩いだったり、自己実現だったり、さまざまな耽溺だったり)でいっぱいになってしまう。だから、そうならないように、神に働いていただくためのスペースを作るのが霊的修練。
基本は定期的・継続的に聖書を読み、祈ることだが、ほかにも各人の性格や傾向によって、さまざまなことが霊的修練となり得る。たとえばせっかちな人は、買い物のときわざといちばん長い列のレジに並んで、焦らず心穏やかに待つ練習をしたり、羨望心の強い人は、誰かに妬みを感じたら、すぐにその場で妬みを感じた相手を祝福する祈りを心の中で祈るようにしたり。がむしゃらに頑張るのでなく、神の恵みに自分を委ね、適切に訓練する。
そうすれば私たちは「平安な義の実」(ヘブル12・11)を結ぶ者となり、「地の塩、世の光」として他者のために用いていただけるのだろう。楽しみだ!