ミルトスの木かげで 第14回 あなたこそ私の神です

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

三週間ほど前、今後の私たち家族の生活に大きな影響を与えることになりそうな、ちょっとショッキングな知らせが入った。最初はキツネにつままれたようでピンとこなかったのだが、ゆっくり考えているうちに、「これはちょっと、大変なことになったよ!」と焦りがわいてきた。
夫と祈るものの、祈りながらも頭の中では、「今、私たちは何をしたらいいのだろう?」と、必死に対応策を考えてしまう。当然、平安などない。夫とも言い合いになる。こんな時に夫婦で一致できなくてどうする、と思いつつも、弱さ全開。ストレスで胃潰瘍にでもなりそうな重い気持ちで数日が過ぎた。しかし、そんなある日、祈りの中で悲鳴をあげていると、主が私の心に語られた。「昔、こんな話をしたことがあったね。覚えているかい?」
主が私に思い出すよう促されたのは、十数年前、家族旅行で電車に揺られて移動している最中での出来事だった。娘の一人が、電車の中で何か怖いものを目撃したのだ。
「ママ! ママ! ママ!」 
切迫した声で私を呼ぶので、振り返ると、娘が恐怖に満ちた目で何かをじっと見つめていた。
私は、「なあに? どうしたの?」と返事したのだが、彼女の目は自分が見ているものに釘付けになっており、私を呼んでいるくせに、私の声など耳に入っていない。
「ママ! ママ! ママ!」
「どうしたの? ママはここにいるよ?」
助けを求めながらも私のことがまったく眼中にない娘に、やれやれと思った。と、そのとき、主が私の心に語られたのだ。「佐知も時々、こんなふうになってしまうことがあるよ。わたしの名を呼びながらも、自分が見ている恐ろしいものから目を離せなくなって、わたしの声が耳に入らなくなってしまうのだ」
「えっ、そうですか? 私もやってますか?」
「やってるねぇ。佐知だったらこんなとき、子どもにどうしてほしいと思う?」
「そうですね……。とにかく、目を奪われているものから目を離して、私のほうを見てほしいです。そうすれば、どれだけ私が近くにいて、安全であるかがわかるでしょうから。自分が見ている恐ろしいものよりも、お母さんのほうがずっと近くにいて、手を伸ばしさえすれば、すぐにお母さんの腕の中に飛び込めることがわかるでしょうから。とにかく恐いものから目を離して、私を見てほしいです」
「そうだね。そのことを、佐知もよく覚えておきなさい」

        *    *    *

あのときにこう語られてから十年あまり経つのに、私はまたやってしまったようだ。神様に背後から肩をチョンチョンとつつかれ、「わたしのほうを見てごらん」と言われた気がした。問題に目を奪われるのでなく、主に目を留める、これは鉄則ではないか! この原稿を準備している時点では、わが家の危機はまだ過ぎ去っていない。半年後にどうなっているか、五年後はどうなっているか、わからない。しかしわずか三週間の間にも、神様は次から次へといろいろなことを通して、主を信頼しなさいと語ってくださった。すでにいくつか、祈りの答えも与えられている。
それだけでなく、この件を通して、私と夫の間に足並みが揃っていない部分があったことも示され、その問題を取り扱うようにも導かれた(現在取り扱い中)。出エジプト記四章で、モーセがようやく神の召しに答える決心をし、エジプトに向かおうとしたその矢先、主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。モーセは息子に割礼をしていなかったのだ。イスラエルの神の契約のしるしである割礼に関して、ミデヤン人である妻と、考えが一致していなかったのかもしれない。いずれにしても、取り扱うべき問題が家庭内に未処理のままで残されているのを、神は見逃されない。
今回突然襲ってきたこの危機を取り除いていただけるなら、それに越したことはないだろう。でも、たとえそうでなくても、私たち夫婦の歩みの中で、神様が今とても大切なことをなさっておられるのを感じる。最初は、目の前が真っ暗になったけれど、今では感謝の気持ちすらある。
先日、デボーションで詩篇三一篇を読んだ。敵に追われ、命を狙われ、憔悴していたダビデ。苦境に立たされ、自分の苦しい気持ちを切々と神に訴えるダビデ。しかし、そのさなかにも、彼は言う。
「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』」(14節)
私もダビデと共に告白しよう。私の霊を御手にゆだねます。私の時は、御手の中にあります。あなたこそ、私の神です。