ミルトスの木かげで 第15回 私も、失うときには、失うのだ

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ」(創世記43・14、太字著者)

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私はこの数年、「結果を支配したい思いを手放す」ことについて、ずっと神様から語られてきた。にもかかわらず、なかなかそうすることができず、もがいていた。
「結果はどうなってもいい」ということは、目標やヴィジョンを投げ出し、自分の側の努力を怠るようで、何だか無責任に思えたし、何より、家族や他者にかかわる問題など、それが重要な事柄であればあるほど、「どうなってもいいです」とは、とうてい言えなかったからだ。
それに、聖書にも「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ人への手紙6・7)とあるので、自分の言動や選択がもたらす結果を念頭に置いて行動することは、重要だと思っていた。先のことを考えず、自分勝手に行動しておいて、「結果は主にゆだねます!」と言うのは、信仰とは言わないだろう。
しかし、ここに落とし穴がある。期待どおりのものを刈り取ることにこだわりすぎると、自分が人生の支配権を握っているような錯覚に陥ってしまうし、願いどおりの結果が得られないかもしれないと、不安や恐れを覚えるようにもなる。
この葛藤について、しばらく前に牧師と話していたら、結果を手放すということに関して、私が誤解をしていた、あるいは理解が曖昧な部分があったことがわかった。結果を手放すとは、目標やヴィジョンを遂行することにこだわらないという意味ではなく、愛する人たちのために最善の結果を願わないということでもなく、そのときの状況で、自分に示されていること、導かれていることに忠実であることを優先させ、その結果については心配しない、ということだと指摘されたのだ。
結果はどうなってもいい、というところがポイントなのではなく、今、私は主の導き、主の教え、主の原則に従う、主が教えてくださっている「義の道」だとわかっていることを選ぶのだという、そちらにポイントがあるということ。なるほど! と目からウロコが落ちる思いだったが、いくら頭で理解しても、なおも明け渡しきれない部分があり、葛藤は続いていた。
たとえば、次女がこの秋から大学に進学したのだが、彼女を送り出すにあたっても、つい最悪のシナリオを考えてしまい(路上で銃の乱射事件に巻き込まれたらどうしようとか、拉致されて人身売買に売られたらどうしようとか)、心配性の私はつい心配してしまうのだった。
しかし、娘の入寮日の朝、祈っていたら冒頭のみことばの「私も、失うときには、失うのだ」の部分が心に浮かび、何かふっと吹っ切れた気持ちになった。いや、もちろん娘を失ってもいいという意味ではないのだけれど。
これは、エジプトがききんに襲われ、カナンにも食べ物がなくなったので、イスラエル(ヤコブ)が、食料を買いつけるために息子たちをエジプトに送ったときのセリフだ。前にも一度息子たちをエジプトに送っていたが、そのときは、末子ベニヤミンは一緒ではなかった。
エジプトの宰相になっていたヨセフに、「次に来るときは末の弟も連れて来なさい」と言われたため、ベニヤミンに災いがふりかかることを恐れていたヤコブは、その後、息子たちをエジプトに行かせることができずにいた。しかし、いよいよまた食料が底をついてしまい、観念してベニヤミンも一緒に送り出したのだった。ヤコブはここで、最善のシナリオになることを願い、そのように主に祈り求めている。しかし同時に、そうならないとしても良しとしている。しがみついていない。主の導きには勇気をもって応答するけれど、その結果は主にゆだねている。握りしめない。抵抗しない。
「私も、失うときには、失うのだ」―そう言えるなら、心が楽になる。主に信頼し、手を開き、握っていたものを神様にお返ししよう。主の御手の中は、私の手の中よりも、もっとずっと安全な場所だから。そして、祈るときも、願わしい結果を求めてがむしゃらに祈るのでなく、「今日、あなたはこの件について私をどのように導いておられるでしょうか。私はそれに、どう応答すべきでしょうか」と祈ろう。逆説的かもしれないが、結果をゆだねたことで、今日、自分が集中すべきことが、はっきり見えてくるかもしれない。見えない将来のことでやきもきするより、ずっと健全な道を、主は用意してくださっているのだ。