ミルトスの木かげで 第23回 急がない生活

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

『心の刷新を求めて』 (あめんどう)の著者、ダラス・ウィラードが、去る五月八日早朝、主のもとに召された。享年七十七歳。つい数日前に、〝ステージ四”のすい臓がんであることが公にされたばかりのことだった。ウィラードは、霊的形成に関する数々の書を著し、また南カリフォルニア大学の哲学科で四十八年間教鞭を執った。『スピリチュアリティ 成長への道』 (日本キリスト教団出版局)で知られるリチャード・フォスターの師でもあった。
ダラス・ウィラードは、そのことばに凝縮された深遠な知恵と、謙遜で柔和で温かな人柄で知られる。彼の名言は山ほどあるが、中でも私の印象に残っているのは、“You must ruthlessly eliminate hurry from your life.” (急ぐことを、何としてでも生活から排除しなければならない)だ。
いや、私はこれがまったくできていないのだが。いつも慌てていて、早く先が知りたくて、結果を出したくて、次に移りたくて、始終そわそわ落ち着きがない。
しかしウィラードは、急ぐことは、霊的形成・成熟の大敵であることを教えてくれた。彼はこう言っている。
「急ぐことには不安や怒りがつきもので、その根底には、プライド、尊大さ、恐れ、信仰の欠如がある。急ぐことで誰かにとって本当に価値あるものが生み出されることは、めったにない」(The Great Omissionより)
キリストに似た者とされ、キリストの品性を身につけたいと思ったら、急いではいけないのだ。
第一に、いくら急いだところで、成長とは、手短かに早くできるものではない。時間をかけたプロセスを経て、得られるものだ。神が私たちを愛と忍耐をもってご覧になっているように、私たちもまた、自分を長い目で見る必要がある。他者の成長に関わる場合も同じだ。子育てでも何でも、成長や変化を急がせてはいけない。ブロイラーされた人間など、恐ろしいではないか。
この世の私たちのいのちとは、目的地に到達することそのものが目的なのではなく、地上での最後の日に至るまでを、どのように生きるのかが大切なのだから。
第二に、日々の生活の中での、一つひとつの事柄においても急いではいけない。私は、スーパーのレジに並ぶとき、いちばん短い列を選んで並んでしまう。高速道路では、右に左にと車線を変えながら、遅い車を抜かして運転したくなる。待たされたり、効率が悪いと感じたりすると、うんざりしてしまう。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という有名な標語があるが、まさにそのとおりだ。だれと一緒にいるときも、何をしているときも、心の中で絶えず「次」の段取りを考えているなら、私は「今」を十分に生きていないことになる。「現在」を英語でいうと‘present’。つまり贈り物である。「今」は、神様からの贈り物なのだ。急いでいるときの私は、「今、ここで」与えられている時間と場所と機会と人々の中で、十分に主の恵みに浸っていないのだ。

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「善きサマリヤ人の実験」という有名な心理学の実験がある。用事があって出かける途中の神学生が、道端に倒れている人に出くわす。
果たして神学生はその人を助けるか、という実験だ。
ある神学生は時間にゆとりがあると言われており、ある神学生は時間に遅れていると言われている。さらに、ある神学生の用事は、倒れていた人を助けた「善きサマリヤ人のたとえ」についての説教をすることで、別の神学生の用事は、聖書とは関係ない話をすることだった。
結果は、急いでいた神学生は、その九割が立ち止まることなく通り過ぎていったが、時間にゆとりがあると言われた神学生は、六割以上の人が立ち止まって、助けの手を差し伸べた。急いでいた神学生は、これから自分が「善きサマリヤ人のたとえ」について話をすることになっていても、いざ倒れている人がいたら、その人を無視して通り過ぎていったのだ。神学生が倒れている人を助けるかどうかの決定要因になったのは、彼らの確信よりも何よりも、そのとき彼らが急いでいたかどうかだった。
人は急いでいると、他者に親切にすることも、愛することもできなくなるのだ。神の恵みを味わうこともできなくなってしまう。だからウィラードは言ったのだろう。「急ぐことを、何としてでも生活から排除しなければならない」
ウィラードの訃報を聞いたとき、とても悲しかった。それと同時に、彼が教えてくれたことの数々をもう一度思い起こし、「急がない生活」への決意を新たにしよう、そう思わされた。ウィラード博士、本当にどうもありがとう。