レイプ被害から立ち上がる 聖書は、力ある「生きたことば」


大藪順子(おおやぶのぶこ)
『STAND:立ち上がる選択』著者

 9月15日、アメリカに来て丸17年が経つ。19歳で渡米した私は、あっという間に四捨五入すると40になっていた。

 他の国と同じように良いところと悪いところが共存するアメリカでのこの17年間、私はいろいろな経験をし、様々な人々と出会ってきた。そんな経験の一つで、私の短い(と思っている)人生のターニングポイントとなった出来事が、去年日本で新聞や週刊誌に掲載されたおかげで、本を書かないかというお誘いをいただいた。

 あれから1年経ち、この秋ようやく発行されたこの本は、1999年に私の身の上に起こったレイプ事件から7年が過ぎ、読み返すことはないだろうと思っていた当時の日記帳を開いて過去を振り返る作業から始まった。

 本を書くという作業の難しさもそうだが、それ以上に自分の過去と向き合い、当時の気持ちの整理をしていくという作業は精神的にとてもエネルギーを使う。気軽に引き受けてしまったが、実は私が想像していたよりもはるかに大変だとわかった時には遅すぎた。それでも昔から書くことが好きな私にとって、執筆という一人で悶々とパソコンとにらめっこする作業は楽しいものでもあった。

 性犯罪という重いテーマを扱いながら、「楽しい」という言葉を使うのはおかしいかもしれないが、性犯罪の被害者にも普段の生活の中で楽しいと思うことは山ほどある。去年、私の講演を聞いた人が感想の中で、「この人は本当に性犯罪のサバイバーなのかと不思議になるくらい元気な人だった」というものがあった。性犯罪のサバイバーは、いったいどんな顔をしていなくてはいけないというのだろうか。そのほうが私には不思議である。

 2001年に個人的に始めた写真プロジェクト「性暴力サバイバー達の素顔」は、そんな被害者のイメージを壊すために始めたといっても過言ではない。レイプや性的虐待という、一般的に思われている以上に身近で起こっている人権侵害は、今まで社会が目をそらしてきた問題だ。おかげで、被害者たちは普通の人であるという当たり前のことですら、社会は否定しようとする。だからレイプは特殊な場所で特殊な人にだけ起こるという印象があるのかもしれない。そんな中で被害者の多くは、実際のレイプや虐待の後もずっと、誰の理解を得ることもなく、影で一人で泣いていたり、精神障害を抱えて苦しんでいる。

 そんな被害者も神に造られた人たちだ。彼らにも名前があり、喜びや悲しみを感じる心がある。神は性暴力の被害者のことをも目に留めて愛されていて、悲しみから立ち上がった時に大きな祝福を用意してくれている。そんなメッセージは教会で聞くべきものだが、残念ながらセックスの話がタブー化されている教会の中では、性犯罪のことは特に危険視されていて、相談すらできる場でないのが現実だろう。それは日本の教会だけでなく、多くのアメリカの教会でも同じことだ。

 今までセクハラや性的虐待のような性暴力が、教会内でも平然と起こっている状況では、なおさら、教会が性暴力被害者の相談など受けられるわけがない。加害者たちやそれをかくまう教会組織のリーダーたちが、今も罪意識なく「聖職者」としていることこそ、危険視されなければいけないことではないだろうか。

 もちろん人間は完全ではないから間違いを起こすのも当然だ。でも同じ間違いを再び起こすか、繰り返さないように気をつけるかの選択枠は誰にでも与えられている。アメリカで大きく取り上げられたカトリック教会の性虐待スキャンダルも、日本の教会内のセクハラ問題も、教会がいい加減に生ぬるい世界から立ち上がり、正しい選択をするよう迫られている警告と受け止めることができたら、これから先、どんなに沢山の人の魂を救うことができるだろうか。

 教会がそんな人たちの苦悩を無視し、被害者に「赦しなさい」と説教だけしてさらに絶望へと追い込む実態があるとしたら、それは新興宗教と同じだ。教会の焦点が神に当てられていたら、自分の感情は二の次にして、不祥事があってもちゃんと罪を認め、堂々と誤ることだってできるはずだ。

 今回、レイプ事件という思いもよらぬ事件から始まった私の新しい出発を本に書いてみようと思ったのも、決して「被害者だからかわいそう」と思ってほしかったからではない。レイプ被害という試練を通ったからこそ、今の自分がいる。今の私は以前の私よりも心に余裕があり、うれしいことも悲しいことも自由に感じながら生活できることに感謝している。

 レイプに遭ってよかったと言っているのではない。でもそんなつらい経験があるからこそ、神の計画の中で用いられている自分を知ることができた。そして憂いが喜びに変わった。何よりも、今の自分を喜び祝うことができるようになったのだ。

 自分を知るということは、自分のためだけでなく、次の世代のためでもあり、他の人のためでもある。社会貢献の一つなのだ。自分が神に愛されていて、持って生まれた性格も神が造られたものだと知っていれば、自分の権利だけではなく、他人の人権をも尊重するくらいの心の余裕はできるはずだ。人の人権を尊重することを自分の子供に教えていれば、その子が将来加害者になることもないだろう。

 性暴力の取材を続ける中で、人の人権を平気で奪える加害者自身、自尊心がないからそんな行動の選択ができるのだという結論に達した。自分に自信がないからこそ、弱者を力で抑圧しコントロールしようとする。そうすることでしか、自分の地位を維持できず、自分の存在の価値を見出せない人は哀れな人だろう。

 今回、本の執筆を通して、改めて神の力のすごさを思わずにはいられなかった。絶望の中で、行き詰まった時、迷った時、悲しい時、疲れた時、その時々に神は聖書を通して私に語りかけて道を示し、勇気を与え、実際に行動を起こすための力を与えてくれた。聖書は、「Living Word」(生きたことば)と言われている意味が、実体験を通してようやく理解できたのだ。おかげで、完全な癒しは可能で、その糸口が聖書にちゃんと書いてあるということを知った。

 この本を通して、どんな答えも聖書にあるということを読者が知ってくれたらと願っている。そして泣き寝入りを強いられている被害者たち、誰にも相談できなくて一人で悩んでいる人たちが、最善のカウンセラーは神がなってくれること、自分の身の回りにいる人たちに理解されなくても、神は他から理解者を与えてくれて、癒しの助けをしてくれることを知ってもらえたら、こんな私の実体験を書いたかいがあったと思う。

 神は受けた苦しみの何倍もの喜びを、その人に与えられる。レイプという被害に遭わなければ出会えなかった夫と、現在、魔の二歳児にさしかかった娘が、その証しとして私の生活の中にいる。心から神に感謝している。