一粒のたねから  第2回 「たたかう」ということ

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

新緑のころ、郊外の高齢者施設に、今年九十四歳になる一人の兄弟を訪ねました。
長く少年院の教官をされていたその方は、退職後、若者に聖書を贈呈する奉仕活動を続けたあと、さまざまな経緯があって、今から二十年ほど前にその施設に入居されたとのことでした。少年院で出会った若者たちとの交流が今でも続いている、とうれしそうに話してくださいました。
暴力団の組員の家で育ったある青年が、教官だったこの方との交流を通して立派に更生していく話は、こちらも聞いていて胸が熱くなりました。その青年は、子どものころからヤクザの父と二人で暮らしていたが、ある日父親が重い病気にかかってしまう。お金もなく、近所の医者に助けを求めるが、父がヤクザと知ると受診を断られ、結局父は亡くなってしまった。彼はその経験をばねにして、苦学して医者になったということでした。
少年院での出会いですから、その青年が医者を目指そうとするまでにはさまざまな挫折があったのでしょう。人生はかなしいものだ、そしてたたかいだよ、と年老いた信仰の先輩はしきりにおっしゃっていました。その方自身にも、長い人生の道のりですから、さまざまなことがあったに違いありません。人生の不条理や絶望も幾度となく経験されたことでしょう。そして穏やかに暮らしている今でも、人生の「たたかい」は続いているとおっしゃる、それは心の底の深いところで発せられたうめきのように私には聞こえました。
人生はかなしいもの、そしてたたかいの連続だ。でも、信仰が与えられているとは何と幸いなことか、という老兄のことばは、ずっしりと私の胸に響きました。
信仰の道は、決して平たんでもなく、いつも喜びに満ちたものでもない。むしろ、「かなしい」とはっきりと言い切られたことばには、重いものがありました。しかしまた、だからこそ、主イエスについて行く信仰の道は素晴らしいというのです。

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今の時代「たたかう」ということに、私たちは何か冷めた目を向けがちなのではないかと思います。そうでなくても、これだけ厳しいストレス社会です。生きているだけで、十分「たたかい」でしょう。もうよいではないか。これ以上たたかわなくてもよい。がんばる必要はない。そんな声が聞こえてきます。特に福祉の世界では、ときに「がんばる」ということばがある種タブーであったりさえします。そうなのでしょうか。
先日新聞に、社会部の記者が、格差社会の問題を取り上げて一つの記事を書いていました。ある母子家庭の話です。
野球選手を目指す男の子が、推薦で私立の名門校に行ったがお金が続かず退学。あらためて定時制高校を受験したが、学力不足で不合格。やむなく通信制高校に籍を置いたが、なじめず退学。結論として、これは格差社会のひとつの問題であるというのです。定時制高校は、このような生徒のためにあるはずではないか、なぜ排除するのかといった論調でした。
読んでいて、何とも言えない違和感を覚えました。試験に落ちたのは、ただその子の学力が足りなかっただけではないか。たしかに、家庭の経済力が子どもの学力に影響するという調査があるようです。それを「格差」というならそうかもしれません。
けれども、人間はこうした不公平や不条理のもとに生まれ、生きていかなければならない、そういう存在なのです。
社会としては、格差をなくす取り組みは必要かもしれませんが、人間の生き方としては、不公平や不条理を嘆いたり、そこから逃れようとすることに時間を費やすのか、あるいはそれらとがっぷり組み合って、内側にある自らとたたかう道を選ぶのか。それで人生は貧しくもなるし豊かにもなる、と思うのです。神は、薄っぺらな格差の論議ではなく、私たちが格差だらけの人生をどう豊かに生きぬくのかに注目し、期待しておられるように思います。

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それにしても、年を重ねて来られた方のことばは、しみじみと心に響くものです。長く信仰者として生きて来られた先輩の口から、人生はかなしく、たたかいの連続だということばを聞いたとき、私はなぜか安心してしまいました。そうなんだ、それでいいんだ、と。主イエスのご生涯もそうでした。
老兄の部屋に自作のこんな歌が飾ってありました。
「生くことも死にゆくことも楽しけれ 神にゆだねしこの身なりせば」