一粒のたねから  第3回 感謝の“おこぼれ”

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

ミッション系の幼稚園に子どもさんが通っているという方にこんな話を聞いたことがあります。
子どもがいつも食前に、「神様ありがとう」と祈る。それは良いことだし間違いないのだが、少しは親にも感謝してほしい、と。半分冗談のような、かといってどこか笑えない話ではありました。
「ありがとう」のひとことがない、とか、そのひとことで救われたとかいったこともよく聞きます。思えば、この世で一番難しく、かつ厄介なことば、それはもしかしたら「ありがとう」なのかもしれません。
だれでも「ありがとう」と言わなければならないことがありますし、また言われる立場にもなります。あなたにとって一番美しいことばは? と聞かれたなら、「ありがとう」はおそらくトップ3に入るでしょう。同時に一番難しいことばは? でも、たぶんかなり上位に入ると思います。
「ありがとう」は言うまでもなく感謝のことばですが、このことばをめぐって、人は互いに様々な思いを交換します。そしてそのやり取りの中で、人の生き方の一面がむき出しになってくることさえあるように思います。

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高齢になった家族の面倒をみるというのは、今やどこでもある風景になりました。
世話をされる老人が「ありがとう」と言う。「そんなこと言わなくていいよ」と介護者は答える。これで両者の気持ちは十分通じ合っています。しかし、こんなふうにいかない場合も少なくありません。介護が負担になると、愚痴も出たりします。それこそ「ひとことがない」と言いたくもなる。一方、老人のほうはといえば、お世話されるのは当たり前とは思わないけれど、感謝は請求されるものではない、と考えます。
いつだったか、車いすの方がからしだね館のカフェにヘルパーさんと一緒に来店され、そこでちょっと驚いたことがありました。
ご本人はもちろん注文のお食事を召しあがっていたのですが、見るとその横でヘルパーさんが持参のお弁当を広げておられたのです。スタッフがおそるおそる声をかけると、いわく、自分たち障害者はハンディがある、そのハンディを埋めるのは社会の責任である。つまり、障害者にとってヘルパーは道具であって、道具のする食事は持ち込みには当たらないといった、どうもそんな理屈のようでした。
持ち込みの話がそれに当たるのかどうかはわかりませんが、そういう意味での「バリアフリー」は、確かに社会の責任と言えばそうです。障害ゆえに、他人や社会のヘルプを受けるのは、決して申しわけないことでも何でもありません。けれども、当たり前とも言えません。つまり、受け手が〝受けて当然”と思ったときに、与え手にとってそれは〝与えて当然”ではなくなるのです。

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ある老婦人のことを書きます。今年八十七歳になるこの方は、このたび私たちが開設した高齢のクリスチャンのための共同住居の第一号入居者です。身の回りのことはほとんど自立されていますが、やはり要所で見守りや手助けが必要で、何かあるたびに「へ、おおきに」と、ほんわかとした京ことばで礼を言われます。かつてはご家族の介護もされ、仕事もどんどんやってこられたが、今はこうしてご自分が人の助けを受けながら生活せざるを得なくなっている。とは言え、ことさらに「ありがとう」を言い過ぎず、かといって礼を失することもない。その自然な居住まいはどこか潔く、周囲をあたたかくさせるものがあります。それはいったい何なのだろうと考えるのです。
それは、もしかしたら、人が老いをどう受け入れているか、ということなのかもしれません。年とともに、できる自分からできない自分へと変わっていく。ちょうど玉ねぎの皮がむかれるように、様々なものを手放し、裸になっていく。ゆるされている自分。生かされている自分。そんな自分をそのままたんたんと受け入れていくとき、人は自分が何か大きなあたたかなものにおおわれ、支えられていることに気付きます。それがときどき、気負いのない感謝のことばとして内側からあふれ出てくるのではないでしょうか。「へ、おおきに」といった感じで。
周囲の人たちは、これがいわば神への感謝の“おこぼれ”だからこそ、過不足なく受けることができます。逆に“おこぼれ”をいただける立場に置いていただいたことに、感謝と喜びがわいてくるのです。
「ありがとう」ということばは、すべて“おこぼれ”である。そう言ってもよいのではないでしょうか。