一粒のたねから 第12回 キリスト者の福祉は伝道の手段なのか

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

この連載も、とうとう最終回になりました。それで今回は、まとめというわけではないのですが、タイトルのように少し大きなテーマで考えてみようと思います。
ある方にこんなことを聞かれたことがあります。「からしだねの働きを通して、何人の方が教会に導かれましたか」
もっともな質問だと思いました。というのは、私たちキリスト者はだれでも、一人でも多くの人が福音に触れ、救われることを願っているからです。からしだねに関わる私たちにしてももちろんそうですし、またそのためにこの働きが用いられるようにと願っています。
ですが、こうして正面から、「それで、何人救われましたか」のように聞かれると、それもどこか違うような気がするのです。
結果を数字で問われることの違和感もありますが、つまりこれは、何人という結果が出てはじめて福祉をやっている価値があるということで、いわば福祉を手段と見る考え方だと言えます。しかし、果たしてそうなのでしょうか。
私は、むしろキリスト者が携わる福祉自体に、福音としての意味と価値があると考えています。そしてそれは、医療であれ教育であれ、農業であれ商売であれ、あるいは政治であれ、どんな分野の働きであっても同じことだと思っています。

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今からもう八十年も前に、一人の女性宣教師が日本で幼稚園を開きました。
当時、子どもを幼稚園に通わせることができたのは、比較的裕福で教育熱心な、開かれた層の人たちだったと思いますが、まだまだキリスト教に風当たりの強いこの時代、はるばる異郷の地にやって来た彼女は、祈りつつ幼児教育という分野で熱心に働きました。毎日、子どもたちを抱きしめながら、「あなたは神様に愛されている存在なのですよ」と伝え続けました。子どもたちが卒園するまでの一年かそこらの短い期間のことです。
やがて戦争が始まり、彼女は母国へ帰って行きました。その後、子どもたちがどういう人生をたどることになったのか、ましてや教会に行って、洗礼を受けた卒園児が何人いたかなど、彼女はおそらく知ることもなく生涯を終えたことでしょう。それでも、私の知るその幼稚園の卒園児の一人である老婦人は、その後の人生の中で、自殺寸前のところから救われ、今キリスト者としての歩みを続けておられます。その背後には、幼稚園児の自分を抱きしめてくれたあの女性宣教師の存在があったのです。
何をしたか、何を残したか、何人だったか―。これらは実は、私たちが思うほどあまり大した問題ではありません。マザー・テレサは、次のような印象的な言葉を残しています。「わたしは、一人の人を助け、できればもう一人の人を助けたいと思っているだけです」
彼女の関心の対象は、常に目の前の貧しい一人の人でありました。ぼろぼろになって死にゆく人に、彼女は主イエスを見ていました。それでも多くの人々がこう批判したかもしれません。いちいちパンを与えていてもきりがない。結局は、何の根本的な解決にもなっていないではないか。……それでも、世界中の人々が、マザー・テレサの働きを通して神の愛を知ったのです。
「これらの……最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25・40)とありますが、この「最も小さい者」というのは、実は私たち自身の中にある、日常の一つひとつの「ひっかかり」であったり、他者へのちょっとした関心、あるいはささやかな思いやりであるのかもしれない、と私は思っています。
たとえば、私は、精神障害者の支援という小さなからし種を神様からいただきました。私はただ、その種をまき続けるばかりです。「まきなさい」と言われたからです。もし、水をやりなさいと言われたら、とにかく水をやり続ける。そして、刈り取りなさいと言われたら、ちょうど良い時に刈り取る。そういうことではないでしょうか。種をまく人は、刈り取る喜びを知らずに終わるかもしれません。それでよいのです。

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最後に、これを読んでくださった若い皆様、どうかこの閉塞した現代の日本にあって、神様から示されたあなたなりの特別な分野で、エキスパートとして活躍してください。そのために大いに勉強し、道を切り開いていってください。
キリストを知り、その愛に生かされている者が携わる仕事は、それがどういう分野であれ、すべて福音の働きであり、宣教であると私は信じています。