一粒のたねから 第8回 弱く小さくある、ということ

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

もう十年近く前になるでしょうか、からしだね館の開設準備をしていた頃、朗読のチャリティーCDを制作したことがありました。CDのタイトルは、ギリシャ語で、視点を変えるとか悔い改めといった意味にあたる「メタノイア」とし、さらにこんなコピーも付け加えました。
「弱く小さくあることに丁寧に付き合っていきたい」
その思いは、とにかく、障害や病気のゆえに〝弱く小さく”されている人々のために、キリスト者として支援の手を差し伸べたい、というものでした。いわゆる社会的に弱いとされる人々、その存在がないがしろにされがちな人々に関わる中で、支援する立場の者たち自身も、彼らから学んでいこうという気持ちです。さらに支援者自身が、自らのうちにある弱さや欠けに目を向け、そこから様々なことを学んでいこうということでもありました。
経済や社会がいろいろな意味でグローバル化した今の時代。弱いよりも強いこと、できないことよりもできること、そして早くて効率的であること、それらが善であるとされ、常に「結果」が求められるという風潮の中で、むしろ「弱く小さくあること」というのは、視点を変える時となり、別の意味で価値と意味を持つのだ、ということを実践の中で確かめていきたい、というのが当時の考えでした。

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やがて準備期間も終わり、からしだね館はスタートしました。あれから六年。いまもう一度、その「弱く小さくあること」の意味を考えてみたいと思っています。
というのは、この数年間の働きの中で、「弱く小さくあること」にはいろいろなとらえ方があると知ったからです。少なくともそれは、障害や病気を持つこととは決してイコールではありません。病気や障害は、確かにある意味の弱さであるかもしれません。けれども、それはあくまでも、私たちが目を留めるべき弱さ、小ささへの入り口に過ぎないようです。逆に、そこから目をそらすときに、障害や病気は、やっかいな「強さ」に変質してしまう危険性さえあります。その意味では、いわゆる健常者とて、弱さを持つのは同じです。病気や障害がないからといって、人は強いわけでも大きいわけでもまったくなく、むしろ私たちは、生きれば生きるほど、自分がいかに弱く小さいものであるかを思い知るのではないでしょうか。
Aさんという四十代の女性利用者のことを思い出します。彼女は自責感が強く、ことあるごとに自分を悪者にします。立派に仕事をしているのに、いつも「私がいらなくなったら、いつでも言ってください」「私のせいで誰々に迷惑をかけている」と自分を責め、追い詰めるのです。
あるとき、何かがあったのか、ついに足が止まりました。来られなくなったのです。さすがに私たちも心配しました。働くことが彼女の支えになっているのは明らかでしたから。しばらくしてAさんは、自分にはやはり働くことが必要なんだと思い直して仕事に戻ってくることになりました。
それでも相変わらず、自分は人に迷惑をかける存在だと思い続けています。そうしてAさんは、〝厄介な”自分と付き合いながら、日々を過ごしておられます。弱く、小さな自分は、迷惑な自分であり、もしかしたらいないほうがいいかもしれない自分である。そんなふうに走ってしまう自分の思いを何とか引きとどめながら、Aさんは今日も働いています。
一つの苦い思い出があります。からしだね館開設から間もない頃、ある職員が、考え方の相違があったのか、去って行きました。あなたがたは強いから……、確かそんな意味のことを言われました。そうか、私たちは強いのか。そう思うばかりで何の実感もなく、相変わらず厳しい中を何とか施設運営が軌道に乗るようにと無我夢中の日々を過ごしたのでした。
いったい、人の弱さ、小ささとは何なのでしょうか。それに私たちが丁寧に付き合っていくのだとしたら、それにどんな意味があるのでしょうか。
弱く、小さくあること。それは、等身大の自分と正面から丁寧に向き合うこと、そのものかもしれません。時にはモタモタしながら、時にはぶざまな格好で。悲しくて泣きたくなるような姿であっても、あえてその場に立ち続けるようなことかもしれません。
主イエスは「最も小さい者たち」をご自身に重ねて表現されました。それはつまり、私たち自身が自らの中にある弱さ、小ささにきちんと目を向けるべきことをも指しているのではないかと考えるのです。