三浦光世を語る 三浦光世のいる風景
旭川を訪ねて

守部 喜雅
月刊『百万人の福音』前編集長

 三浦光世さんが住む旭川駅から富良野線で四十分、今では北海道を代表する観光スポットとなった美瑛の次の駅は「美馬牛(びばうし)」駅といいます。括弧をつけたのは、私の妻の里でもあるこの美しい丘陵地帯が、美瑛ほどに知られておらず、北海道の住民のなかにも、「そんな所があるの?」と言われたことがあるからです。

 この地に義父母が住んでいるので、私たち夫婦は、たびたび美馬牛に出かけます。そのため、旭川に住む三浦光世さんを訪問する機会も増えてきました。この美瑛から美馬牛に至る美しい景色は三浦綾子さん一番のお気に入りだったと聞いたことがあります。


 美馬牛から、だいたい一時間半に一本という富良野線に乗ると約四十分で旭川に着きます。駅からタクシーを利用し「三浦綾子さんのお宅へ」と運転手に言うと何の抵抗もなく豊岡の自宅に連れて行ってくれます。そして、運転手のほうから綾子さんの思い出話が出てきます。旭川の人々にとって、作家・三浦綾子は、今も、心の中に生きているようです。

 今、豊岡のお宅には、光世さんがひとりで生活をし、親戚の方や秘書が通いでお世話をしています。昨年は、五回ほど光世さんをお訪ねしましたが、その頃は、このたび出版された自叙伝『青春の傷跡』の原稿の執筆の最中でした。私は、月刊誌『百万人の福音』の連載「人生は出会い」のために光世さんにインタビューすることが目的でした。

 インタビューではほんの少ししか紹介できなかった青春の記録が、自叙伝では、美しく抑制された筆致で実に詳細に描かれています。四十年にわたり、口述筆記で三浦綾子文学を支えた光世さんですが、ご自身も豊かな文才に恵まれているのに驚かされました。

 特に、光世さんの父親が福島から北海道に開拓に入ったということを聞き、胸を打たれました。同じように、福島から北海道に来た義父母の苦労話が、光世さん一家の苦労に重なり、人ごととは思えなかったからです。

 石四五個
 置きしのみなる父の墓
 渓の響きの
 絶えぬ岸の辺

 自叙伝のなかに出てくる光世さんの短歌です。貧しさゆえに墓碑も建てられなかった父の墓に思いを馳せるその心情は、開拓民を肉親に持つ人々の心に共感を呼ぶにちがいありません。


 『青春の傷跡』には、光世さんの謹厳実直な人柄がよく著されていますが、実は、とてもユーモアのセンスを持ち合わせています。

 たとえば、綾子さんが、病から回復して、外出できるようになって二人でデートに出かけ、映画「エデンの東」を観た時のことです。その後、光世さんは、さかんに主演のジェームス・ディーンのものまねを綾子さんの前で披露したそうです。「そっくりね」と驚く綾子さんのことばに気をよくしたのか、光世さんは、折を見ては物まねをするようになったそうです。

 得意の歌をある時は福島弁で、ある時は大阪弁で歌うこともあったようです。ところが、この時だけは、綾子さんにぴしゃりと言われたそうです。「その地方の人がそれを聞いたらどう思うかしら。けっしていい気持ちではないはずよ。」以来、公の席で方言で歌うことは謹んでおられるようです。


 ご自分の性格について、「若い頃はとても短気でした」と言われて驚いたことがありました。柔和そのものが歩いているようなそのたたずまいは、だれもが知るところです。

 ところが、そんな評価を光世さんは決して好みません。「私は冷たい人間です」と、綾子さんの介護の途中で、ご自身が疲れてしまった様子を率直に語られた時も、心打たれました。

 夜中、多い時は、五回も六回も用に立つ綾子さんを助けて下の世話をする。自ら病を持ちながらの介護生活の大変さ。けれど、その折、自らが疲れ果て介護がおざなりになったことを自ら責めておられるのです。その姿に神に愛されている人の謙虚で真実な姿を見た思いがしました。

 綾子さんが召されて七年。今、光世さんは、豊岡の自宅で執筆活動をし、三浦綾子記念文学館の運営にたずさわり、全国の教会から招かれ講演に出かけられています。

 「もう年です。記憶力が衰えました」と言いながらも、愛が失われ閉塞感のある現代社会に、人の心を慰めるとても大切な贈り物を届けているような気がしてなりません。