失って得たもの 心の穴は空けたままで インタビュー 森 祐理さん(後半)

__人の喪失体験には、身体的、感情的、社会的、霊的なものがあると思います。その霊的な喪失体験をしたクリスチャンの中には、下手をすれば神から離れてしまう……という人生の細い道を通らされていると思うのですが。

 きっと想像もできないほどの喪失体験を通られた方々も、多くおられると思います。でも、どんな苦しみの中でも、主にすがる希望を持ち続けてほしいと切に願います。

__祐理さんや、またはヨブのように「苦しみにあったことは私にとって幸いでした」と告白することのできない方は、クリスチャンでもたくさんいると思います。例えば、交通事故で夫を亡くした妻に向かって「ご主人は神の御手の中にあるから悲しまないで」とか、「子どもたちが神に立ち帰るためだったのよ」と言われてひどく傷ついた方を知っています。そのような方々に「喪失」から「希望」への橋渡しができるのでしょうか。

 私にとって、その橋渡しはコンサートだと思っています。コンサートで自分の体験を話すことで、多くの方が共感を得てくださいます。コンサートの後で声をかけてくださる方もいらっしゃいます。相手が心を開いて下さって初めて、「神様は、きっとあなたも助けてくださいます」という言葉を、その方にかけてあげられるように思います。まず、相手の方の心を開く作業がとても大事だなと思います。

__通常コンサートというと、聴きたい人が会場に行くというイメージがありますが、祐理さんのコンサートの中には、刑務所や学校などのように全員参加が決められているものもありますよね。

 刑務所でのコンサートほど、最初と最後で聴いている人の表情が変っていくコンサートもないですよ。夏だと、みなさん半袖で腕の刺青が見え、よく見ると小指もない方もおられて、目つきもすごいです。

 その中で私は、「神様、助けてください」って祈りながら歌っています。

 でも、コンサートが進んでいくうちに、次第にひとりひとりの顔が変わっていくのです。肩が震えてこられ、汗を拭くかのようにして涙をぬぐっている方もいらっしゃいます。

 このような様子を見ていると、人を変えるのは私の力ではなく、神様がそこにいて働かれ、人々の心に触れているからというのがよくわかります。

__「喪失」ということについて少し考えてみたいと思うのですが……

 実は私は、今まで声や弟を「喪失した」とは思ったことがありませんでした。「喪失してしまった」と嘆かず生きていくほうが、希望がありますよね。

__でも実際には「喪失」を体験されていらっしゃる。その中で、その「穴」をふさがない生き方をしているという表現は、とても新鮮でした。

 私は、弟を喪失したことによって、「穴の空いた自分を得た」って思っています。

__新たな自分が創出されたのですね。喪失と創出……

 そうですね。つまり心の一部を失ったのではなく、「穴の空いた自分」を創出したのですね。

__穴が空くということは、聖書的に言えば「こころ貧しくなる」ということなのでしょうか。徹底的に自分の無力さを知り、自分を捨てきったものを神様は創り直してくださる。祐理さんのその「穴」とは、そういうものなのでしょうね。

 私は、よく「さかさまの法則」という言葉を使います。声を失って歌を得て、弟を失っていのちの意味を教えてもらって……。イエス様の十字架も、死があるから永遠のいのちを得るということですよね。失って得る。これがある意味で、神様の法則なんだろうなって思います。

__喪失というのは、幸せにしてくれる何かを失うことですから、悲しみは避けられません。「ないところにある」。それは空っぽのお墓が復活を意味していたことでもありますね。

 喪失がそれだけで終らず、回復があることは希望ですね。個人的なことですが、私の新年の抱負は「今まで失ってきたものを、回復する年となるように」だったのですよ。

__喪失と回復というのは聖書のテーマですよね。

 本当にそうですね。喪失があるからこそ回復する希望が、死があるからこそ、復活の喜びがありますよね。

 今年は震災から十一年目、そして世界でも多くの災害が起きています。

 神様は、震災や災害を通して、私たちの心を揺り動かしておられるように思います。それは、たとえ災害で様々なものを喪失しても、永遠のいのちを喪失することがないようにとの、愛の警告でもあると思います。どんなに苦しい喪失を経験しても、最も大切なもの、主の愛と永遠のいのちを失うことがないよう、私自身も主と共に歩んでいきたいと思います。

__今日は、ありがとうございました。

(このインタビューは「聖書と精神医療研究会」といのちのことば社との共同企画です)