子どもたちに夢を
 ことばは「命」を与える
インタビュー 坪井節子さん

 最近では、児童虐待やいじめなどのニュースはめずらしくない。国は、社会は、親は、何をしているのかと、私たちは憤りを感じ、原因を探ろうとする。だが、新刊『子どもたちに寄り添う』は気づかせてくれた。「私たちは、子どもたち自身の声を聞いてきたのだろうか」と。

 著者、坪井節子さんは、苦悩で眠れない夜があっても試行錯誤しながら、子どもたちの声を聞き、寄り添ってきた。その動力は子ども自身なのだと言う。「傷ついた子どもの顔が笑顔に転じたときの感動を、もっと大人に味わってほしい。子どもたちが将来に対して希望や夢を持つことは、私たち大人の未来がひらけていくということなのだから。」 弁護士である坪井さんは、20年ほど前から、弁護士会を基盤とする子どもの人権救済活動に携わり、学校におけるいじめ、体罰、不登校、家庭内や児童福祉施設内での虐待、犯罪、売買春などの問題を抱えて苦しむ子どもたちの相談を受け、代理人あるいは付添人として活動している。

 こうした活動の中から、2004年6月、家庭崩壊や虐待などの理由で帰る家がない子どものための緊急避難場所(シェルター)「カリヨン子どもの家」を誕生させた。弁護士や児童福祉関係者などが中心となり、多くの市民や団体の支授を受けて、NPO法人カリヨン子どもセンターを設立し、運営にあたっている。

「人権」を救済するとは

 もともと坪井さんは、人権や社会悪に対する強い意識をそれほど持っていなかったと言う。弁護士ならば「人権」にかかわる仕事をするものだろう、子どもの相談ならできるだろうと、たかをくくって始めたのが「子どもの人権救済センター」の相談員だった。

 しかし、そこで虐待やいじめといった陰惨な環境に置かれている子どもたちに出会う。

 「私はかつては、(人権ということばを)『人間の尊厳を守る権利』と定義して、わかったつもりでいました。ところが、『子どもの人権救済活動』という名の活動に従事するようになってから、『人権』とは何かがわからなくなってきたのです。子どもたちが陥っているあまりに悲惨な現実、苦しみや悲しみの思いを知るにつれ、何もできない自分に戸惑い、何をすればいいのかがわからず、混乱しました。そして人間の尊厳とは何なのか、人権救済とは何なのか、そもそも人権とは何かがわからなくなってしまったのです。」(95頁) 何をしたら、何を言ったら、子どもの人権を救済することになるのか、わからなかった。その中で坪井さんにとっては、目の前の子どもが元気になり、生きていてもいいと思えることが、「救済する」ということだった。

ことばが「命」

 そんなふうに多くの子どもたちとかかわりを持ちながら、坪井さんが見いだしていった、ことばとして伝えるべき3つの人権の柱がある。

 ひとつめは「ありのままのあなたでいい」と伝えること。虐待を受けてきた子どもは、命を大切にされたことがない。そのような子どもたちに、「あなたは生まれてきてよかったね」「だから、生きていてほしいのよ」と伝えると、子どもたちは、前を向き始めるのだと言う。生きていていい、生まれてきてよかった、と思えることは、「生きるための底支え」なのだ。2つ目は、「あなたはひとりぼっちではない」と伝えること。

 そして、3つ目に「あなたの人生はあなたのもの」と伝えること。大人が納得するような解決をしても、子どもが元気になっていないという失敗を何度もくりかえしたという。子ども自身が、問題に向き合って解決しなければならないのだ。

 「当たり前のことなのに、子どもたちはこういうことばを聞かされてなかった。だから自分の命を大切にできないの。ことばが『命』。聖書にあるとおりね。」

教会に戻って

 坪井さんは、幼児洗礼を受けていたものの高校一年生のときに教会を離れた。しかし弁護士となって子どもたちの悲惨に直面するようになり、どうすることもできない圧倒的な無力感の中で、神に戻った。「あの子どもたちの涙の一滴、血の一滴を抱き止めてくれる神にいてほしいと。いてもらわなければならない」(122頁)と思ったのである。

 祈るようになってから10年ほどたち、神に連れ戻されるようにして坪井さんは再び教会に戻った。1999年のことである。

 イエス・キリストの十字架の意味も、やはり子どもの苦悩に重ねることによって教えられた。

 「イエスは何の罪もないのに、この世でもっとも残虐な刑でなくなったでしょ。むち打たれ、唾をかけられ……これは子どもたちと同じだと思ったの。この世でもっとも屈辱的な体験を味わったイエスだからこそ、虐待を受けた子どもたちに最後の最後まで寄り添うことができる。陰惨な十字架の事実がなければ、子どもたちは救われないの。そしてその事実は、私のためでもあるんだって気がついた。私のためにも十字架にかかって、『あなたとともにいるよ』と言ってくださっている。」

語ることばを持っている

 教会に通うようになって驚いたことがあった。それは、教会で語られていることが、子どもを生かすことばとして体得してきた「人権の三つの柱」と同じだったからだ。「ありのままの存在を認めてくださる」父なる神、「この世の何ものにも屈することなく常に人の人生の先に立って導かれる」イエス・キリスト、そして「常に人とともにいて励ましてくださる」聖霊。まさに3位1体の神と重なった。

 「もっとも人間らしく生きるということは、神様から伝えられていることばを聞くこと。神様から人権が与えられているのですね。そして、それはクリスチャンではない人にも保障されている。」 だからこそ、坪井さんは願う。「教会の外には、ひとりぼっちの人がたくさんいて、『こんなみじめな自分は生きていられない』と思っている。クリスチャンは、語るべきことばを持っていることを知ってほしい。そして、勇気を持って語ってほしい。」

「死」から「生」へ

 「カリヨン子どもセンター」には、虐待や家族崩壊、非行などの苦しみを抱えた子どもたちが避難してくる。2004年からこれまで75人が、ここで1、2か月ゆっくり体と心を休め、弁護士やスタッフと相談しながら自分で行く先を決め、再出発している。「2週間くらいかな。カリヨンにきた子どもに、10人以上の大人たちがあたたかいことばのシャワーを浴びせるの。子どもたちの表情が変わっていく。」自分みたいなみじめな人間は生きていてはいけないと多くの子どもたちが思っているという。ましてや教会になんて行ってはいけないと言った子どももいた。

 「『子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません』(ルカ18・17)って聖書にあるでしょ。」自分は弱い、自分で自分を救えないと思っている子どもたちこそ神様が招いておられる。だから神様から保障されている「人権」、つまり「生きてほしい」という願いを伝えると、子どもたちは輝きだす。

 子どもたち自身が、「生きていていい」と思えること、これが救済。ベクトルが「死」から「生」に変わった子どもたちの輝きは、何ものにも代え難い。