恵み・支えの双方向性 第18回 迷惑な受け身

柏木哲夫
淀川キリスト教病院理事長

言葉にこだわっていると、それが方向性につながることがあります。日本語には自動詞と他動詞があります。“主語「が」~する”ときは自動詞、“目的語「を」~する”ときは他動詞となります。自分が動くので自動詞、他人を動かすので他動詞という覚え方もできます。「走る」は自動詞、「ほめる」は他動詞です。
言い方を変えると、「先生にほめられた」というように、受け身の形があるのが他動詞で、形がないのが自動詞とも言えます。「走る」には受け身の形がなく、自動詞です。
ホスピスで仕事をしていますと、「看取り」とか「看取る」とかという言葉によく遭遇します。「看取る」は他動詞です。誰々を看取るとか、誰々に看取られるとかの表現があります。このことに関して、私にとってとても印象的だったことを書いてみます。
放送作家の永六輔さんが『妻の大往生』(中公文庫、九一頁)に載せておられる俳句です。普段から永さんは奥さんより早く旅立ちたい、つまり、奥さんに看取ってもらいたいという希望を強く持っておられたようです。奥さんも永さんを看取るつもりでおられたようです。ところが、奥さんが癌のために永さんより早く亡くなられたのです。その時の心境を俳句にされたもので、

看取られるはずが看取って寒椿

という句です。すばらしい作品だと思います。
話を自動詞と他動詞に戻します。自動詞には受け身の形がないという原則については前述のとおりです。しかし、とても興味深い「迷惑な受け身」というものが日本語に存在します。たとえば、「雨に降られる」という表現です。「降る」は自動詞で、本来は受身形がないのですが、「降られる」という「迷惑な受け身」の形が存在するのです。ほかにも、「客に居すわられる」、「妻に死なれる」などもそうです。「妻に死なれる」は「迷惑な受け身」というより「困った受け身」と言ったほうがいいかもしれません。
このことを方向性という視点から見てみますと、他動詞は双方向性です。「私は彼をなぐる」は自分から他者へのベクトルであり、「私は彼になぐられる」は他者から自分へのベクトルです。
これに対して、自動詞のベクトルは原則として、一方向性です。「走る」を例にあげると、「私が走る」とか「犬が走る」とかのように主体から出るベクトルは一方向です。しかし、「迷惑な受け身」は双方向性を持っています。「雨に降られる」という場合、降られて困っている自分へのベクトルが加わります。
「迷惑な受け身」をもう少し詳細に見てみると、そのほとんどが主文に現れるという特徴があります。これが主文ではなく従属文に現れる場合には、迷惑性が希薄になるどころか思恵性が含まれるようになることもあるという興味深い現象が起こります。たとえば「楽しみにしていた花見だったが、途中で雨に降られた」の場合、受け身は主文に現れ、文字どおり迷惑になります。ところが「三日も雨に降られると、かえって充分な休養になる」のように主文ではなくて、従属文に受け身が現れると恩恵性が含まれます。
日本語は、ニュアンスを重んじる言語だと思います。それが「曖昧な表現」や「間接的な表現」を生むのではないかと思います。たとえば「死ぬ」というのは直接的表現で、日常生活ではあまり使われません。代わりに、亡くなる、逝く、息を引き取る、永眠する、他界する、永遠の眠りにつく、まかる、昇天(召天)する、往生する、事切れる、果てる、世を去る、旅立つ……等々、実に多彩な表現があります。

     *

死に関する間接的表現という意味で、私自身の個人的な経験を述べます。ホスピスでの経験ですが、患者さんが「死を迎えられた」とき、「ご臨終です」と、いわゆる「臨終宣言」をします。ごく当然のようにそうしていたのですが、ある講演会で「臨終というのは死に臨むこと、すなわち、いのちが今終わろうとする間際の意味であって、死そのものではない」という話を聞いて、「なるほど」と思いました。辞書を引いても、そのように書いてあります。臨床の現場では「亡くなりました」という代わりに「ご臨終です」と、いわば間接的な表現をしてきたわけです。このことがきっかけで、しばらく「亡くなりました」と言っていたのですが、私自身にやや違和感があり、「ご臨終です」に戻しました。
言葉にこだわっていると、思いがけない発見があるという例の一つです。