戦争の記憶 Ⅰ 「教会の責任」 ◇インドネシアでの日の丸拒否

岩崎 孝志
土浦キリストの教会 伝道者

太平洋戦争開戦の翌年、日本軍はインドネシアに上陸し、占領は日本敗戦まで続いた。それがどんなことであったのか―。
長く東京外語語大学で教えておられた伊東定典さんの遺著『インドネシア・プロテスタント小史』(ふくろう出版)にはこう記されている。「マルク地区において、説教壇に日章旗を貼ることを拒絶して皇居遙拝を拒否した理由で、外国人宣教師四名を含む牧師三一名、伝道師四七名を殺害し……聖職者を『新生道場』に入れて研修を行い、説教に検閲制を布いた。……『キリスト教連合会』を結成してカトリックとプロテスタント各派を一本化した」
マルクとは、日本でいうモルッカ諸島、スラウェシはセレベス島である。同書は、ミナハサやカリマンタンでも、さらに多くの牧会者とその家族が、「日の丸」への最敬礼、宮城遥拝(はるか遠くの皇居に向かって天皇に最敬礼をすること)に抵抗して、日本軍に殺害されたことが記されている。
この翌年、軍の要請で、カトリック、プロテスタントあわせて約二十人の宣教師が派遣される(うち四人は魚雷攻撃によって現地に着くことなく亡くなった)。軍に従順な教会と神学校に作りかえて「再建」するためだった。

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当時、日本のプロテスタント教会は、礼拝前に会堂に日の丸を飾って、「国民儀礼」(君が代斉唱、宮城遥拝、皇国臣民の誓いなど)を行っていた。それは、官憲や法の強制によってではなく、教団本部からの通達に従って、当たり前のようにだった。
「神社は宗教ではない(神社非宗教)」という政府の説明で、教会は神社参拝にも従順だった。朝鮮半島で起こった神社不参拝の抵抗も、インドネシアでの抵抗も、日本の教会には何も見えず、自らを省みることもなかった。
開戦から一か月後、函館の教会で若い牧師補と教会員の兄姉が、町内の神社参拝に非協力との理由で憲兵隊に捕らえられた。牧師補だけ特高警察に移され、二か月後の非公開裁判の翌日に死亡した。自殺と発表されたが、遺体の状態から拷問死と推測されている。よく知られた小山宗祐獄死事件である。
当時すでに教会は神社参拝を行っており、小山牧師補の所属教派も、これを「脱線行為」と迷惑がった。敗戦後、この事件に着目したのは教会ではなく、教会の外の人たちである。

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私たちは、公に決まったことに対して、一度決まると、それが政府の通達であれ、議会の議決であれ、裁判の判決であれ、つい従順になりがちである。見えなくなり、考えなくもなる。
しかし私たちが、真に従順であらねばならないのは、そういうものに対してではないはずである。
聖書に記される「主の目の前に悪を行」った人々も、真の神への信仰を、必ずしも捨てたわけではなく、その自覚もなかったに違いない。″そのこと”が「神でないものを神と並べる」ことだと気づかなかった、気づこうとしなかった人々である。しかし、違った道を歩み始めてからでも、気づかされる機会は少なくなかったはずである。
何を見過ごしたのか、起こっている事柄の意味をなぜ気づかなかったのか。特に戦争における教会の責任について、私たちは同じ罪を犯しやすい弱き者として、その重さを心に深く刻みたい。