戦争を知らないあなたへ 被爆者と残された者への影響

木村弘美
日本基督教団・広島牛田教会担任教師

 戦争がいかに非人間的な行為かを、若い方々に知っていただくため、核の爆撃にさらされた私の体験を述べたいと思います。

 六二年前の八月六日、広島は人類初の原子爆弾を落とされました。この核爆弾は地上六〇〇メートルの高さで爆発し、太陽を二つ合わせたぐらいの熱だったようです。それが一二〇〇〇メートル以上の高空まで上り、まるで生き物のような火の柱になって、一時間ぐらいの間に直径五キロメートルぐらいの原子雲ができたといいます。

 当時、広島の人口は三五万人ぐらいでした。そのうち、原爆で死亡した人は六日の投下直後から八月末までに一四万人、四年後には白血病などで一〇万人増えて、二四万人になったのです。この中に父と妹が含まれています。私はその時七歳でした。

父と妹の被爆死

 母が五歳の私と一歳の妹を残して急病死しました。一家は原爆投下の二年前、父の実家に引き揚げてきました。

 そして八月六日の原爆投下です。父は幼い妹を連れて建物疎開の勤労奉仕に出かけました。

 やがて、八時一五分の核爆撃です。私はひとり家の中にいました。突然ピカッと光った閃光が、全身を熱気で包んだように思われ、顔に特別な熱さを感じました。それと同時にドーンという地響きが起こり、家の崩壊はありませんでしたが、障子やガラスの散乱などによって辺り一帯メチャメチャになりました。

 その後、隣に住む叔母親子と三人で、一番近い黄金山の親戚の家に非難し、空き地に板を敷き詰めて蚊帳を吊っただけの寝床を作ったのです。蚊帳の中は暗く、時折通る飛行機の音に脅え、父を思って心細く、寂しく、悲しかったことを忘れられません。

 翌日帰宅すると、……父と妹は全身火傷をして横たわっており、家の中は表現の仕様もない悪臭を漂わせていました。私たちは互いに言葉を失い、ただ呆然として、父が目だけくりくり動かしているのを見ているだけでした。妹は目と鼻と口だけ出して、包帯を巻きつけられた状態でした。父は火傷をして熱いはずの妹に、母が私に縫ってくれて大切にしていた花柄の着物を掛けていました。

 その後、父と妹は大河国民学校の臨時救護所に収容されました。父は床に敷いたむしろに寝かされ、妹はかますの上に、全身赤チンを塗られ、裸のまま寝かされていました。……父が一〇日に、妹が一三日に永眠し、幸いにもそれぞれ遺骨を受け取ることができました。

心の傷や罪の意識

 生き残った者の被爆体験が、心の傷になり、解きほぐされないまま時を経て、ある日突然現れることもあるのです。人々は被爆のさまざまな体験場面を再現(フラッシュバック)して、不意に苦しみ、悲しみ、脅える目に遭います。

 例えば二〇〇二年八月六日の平和学習に参加したとき、原爆投下の八時一五分は死没者の冥福と世界平和を祈願する時間ですが、私はダイ・イン(被爆死体を模して大勢で地面に横たわり、核兵器に抗議)の示威運動を体験しました。元来、心臓は強いはずなのに、突然激しい動悸に見舞われ、ギブアップしました。動悸は過去に経験したこともなく、本当に不思議な出来事でした。


 このように、人間が大量殺戮され、地球の存続そのものをも危うくする、核爆弾の使用を何としても阻止しなければなりません。そして一人ひとりが核廃絶を心に留めて、世界中に訴えなければならないのです。学校で学んでいるあなた、ビジネスに専念している若いあなた、子育てをしている若いお父さん・お母さん、どうぞ、あなたや子どもたちに直接影響を及ぼすことですから、常に意識して忘れないでください。

 (日本基督教団・広島牛田教会担任教師)
(c)Hiromi Kimura