折々の言 4 「生の冒険」「神の冒険」

花
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

 一、 一人の学生

 私は先回、四十六歳から五十五歳まで約十年間籍を置いた大学で、「教育もまた癒し」という感触を得るに至ったことの一端を述べたが、今回はそれに引き続いて、正しい知識や新しい視野がどんなに人を励ますのかを実際の学生のレポートから、明らかにしてみたいと思う。私に教育には、そうした側面があることを気づかせてくれた貴重な学生たちである。

 その大学を去る前、私は一時帰国した宣教師に代わって「キリスト教人間理解」の講座を一年間担当した。テキストはP・トゥルニエの『暴力と人間』『女性であること』『生の冒険』『結婚の障害』『人生の四季』(いずれもヨルダン社刊)などであったが、まず一人の神学生は、『生の冒険』に関して次のようなレポートを提出した。

 本書を読んで、最も面白いというか印象に残った言葉は「神の冒険」という概念であり、「神はもっとも高度に冒険精神を持った方」(90頁)であるという表現であった。

 私はこれまで聖書の神を「冒険好きな神さま」だなんて思ったこともなかったので、これは大きな発見であった。(注 トゥルニエは同書の中で天地創造の物語を、神は第一日目に○○を造られ、第二日目に△△を造られ、第三日目に××を造られ……と表現し、最後に「それらはみなはなはだよかった」と言われていることについて、神の創造性は多様性に富み、かつそれらの存在を肯定されたということを強調し、それを神が冒険を好まれる方であるというように解釈している。)このような神によって造られた人間もまた高度な冒険精神を持っていて当然であろう。人間の創造そのものが神にとっても大いなる冒険であったはずだから……。

 このような背景で聖書を読むと聖書の物語が様々な冒険で彩られており、登場人物たちの人生もまた鮮やかな冒険に満ちているのがわかる。(中略)この神が同じように私にも「生きよ、冒険せよ!」と声をかけて下さる。それで「聖なる働き」に参与する思いをもって、私でも「神とともなる人生という冒険」にあずからせていただけるとは、これまで考えたこともなかった視点であり、名誉なことであり、改めて「私の神」を誇りに思う。

 このレポートを読んで私が驚き、また感動したことは、この神学生はもう二十年来、熱心に教会に集い、かつ神学校に学びながら、「神が冒険を好まれる」というような概念など、一度も聞いたことがなかったと言っていることであった。つまり宗教や信仰という名のもとに彼女は、神を狭く、また不自由にとらえ、多様でドラマチックで「はみ出し」をも許し給う方などとはついぞ思いもしなかったというのである。そしてこのレポートは私に様々なことを考えせしめた。つまり聖書をどう理解するかによって人はこれほど伸びやかに自由になり得るという一種の感動であった。J・M・ドレッシャーは『若い牧師・教会リーダーのための十四章』(いのちのことば社刊)の中で、「神はご自身を新しさの中で現される」(84頁)と表現したが、おそらく私たちの神は、狭い神学や聖書釈義の中に閉じこめられるお方ではないのであろう。

 二、 生の肯定

 ついでもう一人の学生は、次のようなレポートを書いた。

 私はポール・トゥルニエの『生の冒険』という本に出会ったとき、私がこの世に生を受けたときに神さまから与えられたであろうと想像するこんな言葉を思った。「これからいろいろあるだろうが、地上での冒険を精一杯楽しんでおいで。」たしかに障害をもってこの世に生を受けた私にとってこの三十一年は決して平穏なものではなかった。しかし、この身体を通して得ることのできた実りの何と豊かなことだろう。地上一メートルばかりの車イスの高さからは人の悲しみ、高ぶり、痛み、喜びの本質を教えてくれる万華鏡をのぞいたような楽しくも悲しい人間の世界が見える。思わぬところで人の心のあたたかさに出くわし、喜びにうかれていると、また思わぬところで人の心のさびしい現実にうちひしがれる。

 でもそれは私が死ぬまで人生を通して神さまをいつもそばに感じられ、いつも新しい神さまに出会い、より親密になっていくために神ご自身が周到に仕組まれた人生のシナリオだと私には理解できるような気がする。(そう考えると)「障害」とは、私にとって神さまから与えられた最大のツール・アイテム(手段)なのだ。

 先天性の障害をもって生まれた私は、長い間「障害を克服する」という言葉が大嫌いであったが、この本に出会って、私のこの感覚があながちまちがいでなかったという自信を持つことができ、この授業のおかげで、トゥルニエに出会えたことを心から感謝している。(以下略)

 「教師冥利に尽きる」という言葉がある。臨床医としての世界でも、数少ないなりにも「医者冥利に尽きる」という体験、すなわち医者をしていなかったなら決して経験させてもらえなかった体験に出会わせてもらったが、この十年近くの教師としての体験もまた、人は自分自身の肯定と混沌への光を求めていることを改めて強く思ったのである。