文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第4回 書簡の解釈 (上)

関野祐二
聖契神学校校長

 キリスト教の教典という意識で新約聖書を初めて手に取る人は、「手紙」が数多く収録されている事実に驚きます。成立過程が複雑な「福音書」に比べ、「手紙」は(例外はあっても)基本的に差出人や受取人が明確な一次資料ですから、解釈もたやすいのでしょうか。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ六・二三)などは、救いの教理を要約するみことばゆえ、そのまま字義通り理解すれば十分と考えがち。でも、事はそう簡単ではありません。

● 書簡の性質

 新約聖書には、個人的色彩の強い「手紙」(real letter)と、より公的な文学様式の「書簡」(epistle)が混在しています(ここでは両者を便宜上「書簡」のカテゴリーで扱います)。どちらも、差出人、受取人、挨拶、願いと感謝、本文、終わりの挨拶など、ある程度の基本形式を持ってはいますが、パウロの激情ほとばしるガラテヤ人への手紙などは、感謝の祈りをすっ飛ばし、いきなり教会員を責める本文へと突入する例外。差出人不明のヘブル人への手紙や、特定の宛先がないヤコブの手紙などもあります。

 そうは言っても、すべての新約書簡に共通で、解釈する際に見逃せない要素があるのは確か。それは書簡が「特別な機会に書かれた一世紀の文書」だという、考えてみれば当たり前の事実です。聖霊によって霊感された、あらゆる時代に語りかける神のことばとはいえ、書簡はあくまで書簡ですから、差出人の置かれた状況下、元々の受取人に対し、その必要に即して書き送られた実際の文書でした。

 多くの場合書簡は、矯正されるべきふるまいや教え(Ⅰコリントやガラテヤ)、真理に照らされる必要のある誤った理解(コロサイやⅠテサロニケ)、迫害や不一致の厳しい環境(Ⅰペテロやピリピ)など、受取側の状況が誘因となって書かれるに至りました。それゆえ、書簡は本来パウロやペテロの神学論文や組織神学書ではないし、そうした役割を書簡に負わせてはならないのです。

 パウロ神学の集大成と一般に理解されるローマ人への手紙でさえ、パウロ思想の一部であってすべてではなく、救いは律法によらず信仰によるという、「義認」の教理に特化された異邦人対象の内容。それはローマ教会に(パウロによる今後の伝道展開のためにも)必要性があったがための執筆でした。特別な必要のため書かれた「神学」(神についての、ひとつのまとまった思想)とも言えましょう。

● 背景理解と再構成

 ですから、書簡を解釈する際にまずしなければならない作業は、著者(差出人)がそれを書くに至った状況の再現であり再構成です。コリント人への手紙第一を例にとりましょうか。パウロにこの手紙を書かしめた、宛先となるコリント教会ではいったい何が起きていたのか、パウロはこれまでコリント教会とどのように関わってきたのか、この手紙に表されているコリント教会員の態度はどうか。

 こうした質問に答えるべくコリント人への手紙第一を繰り返し読むにつれ、コリントという町とそこに住む人々について、どうしても調べる必要が生じてくるでしょう。パウロが書き送った当時の、コリントというアカヤ州首都の状況や特色はどうだったのか。手軽なのは、『聖書 注解・索引・チェーン式引照付』の、コリント人への手紙第一の本文前の「緒論」を読むこと。そこには、著者、執筆年代と場所、執筆事情、宛先、特色、主題が載っていて、非常に参考となります。なぜパウロがこの書簡で、性的不品行や偶像にささげた肉の問題に多く触れているのか、納得がいくはずです。

●「使徒の働き」との関係

 パウロ書簡のうち、ローマ~Ⅱテサロニケ、ピレモンへの手紙は、「使徒の働き」にその執筆時期と場所を跡づけることができる書簡。たとえばコリント人への手紙第一は、パウロが第三次伝道旅行でエペソに二年三か月滞在する間に書かれました(Ⅰコリント一六・八、使徒一九章)。さらに、コリント教会での伝道状況は使徒一八・一―一七でわかります。ⅠⅡテモテ、テトスへの手紙は「使徒の働き」所収記事後の執筆ですが、テモテの背景や(一六・一―二)彼が牧会していたエペソ教会の状況(二○・二九、三○)などはうかがい知れます。「使徒の働き」を軸にパウロ書簡を関連づけていく読み方は、書簡の学びにとって基本のキですから、挑戦してみてください。

● 段落を意識する

 結局のところ、書簡解釈の事始めとは、章や節の区分を無視して、一気に全体を何度も何度も読むこと。そして、大きな内容のかたまり、段落、構成を見いだすことです。差出人には、宛先教会や個人にどうしても伝えたいメッセージがあったのですから、それをつかむために努力しましょう。愛する人からの手紙なら、それこそ明かりに透かしてまでも(!)行間を読み、真意を汲み取ろうとするでしょうから。