新約聖書よもやま裏話 最終回 荒野に咲く古代へのロマンス!?
死海文書


伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生

世紀の発見

 かれこれ六十年ほど前のこと、人が寄り付かない死海のほとりの洞窟のひとつに少年がたまたま石を投げ入れたら、瓶が割れる音がした。迷子になった山羊を捜していたベドゥインの少年が「死海写本」のひとつを発見したのだ。こうして世紀の発見が始まった!

発見以前

 死海写本が発見される前は、旧約聖書の写本で最も古いものでも、紀元十世紀以降のものであった。これは、ユダヤ人たちが旧約聖書の写本を新たに作成すると、古い写本を処分してゲニザと呼ばれるところに捨てた(!)ためであり、パレスチナの気候上、古い写本は現代まで残ることはないと考古学者たちは確信してきた。

発見の結果

 死海写本が発見された結果、紀元前にまでさかのぼる旧約聖書の古い写本が見出された。特に有名なのは、第一洞窟から発見されたイザヤ書の写本である。それは、ほぼ完璧な状態の写本で、公開されている。

 死海写本は当初、偽物であるかもしれないと疑われたが、ヘブライ大学の考古学教授スークニクによって、真作であることが保証された。そのためにベドゥインの人々があちらこちらで「宝探し」を始めてしまい、発掘の妨げともなった。ベドゥインの少年の発見以後、数年にわたって近くの洞窟で考古学的発掘がなされ、最終的には計十一の洞窟から数え切れないほどの写本が発見された(多くは断片)。

 旧約聖書の写本以外には、近くの遺跡に居住していた共同体の規則などの独自の文書も見出されている。それらはヨセフスなどが「エッセネ派」と称したユダヤ教の一派のものと思われる。

写本の種類

 写本中一番長いものは「神殿の巻物」で、出エジプト記と申命記とを組み合わせた内容となっている。

 「青銅の巻物」と呼ばれる青銅製の巻物は、さび付いていたが、マンチェスター大学で切り開いて解読することに成功した。中身は宝物の一覧の記録であるが、実在したものか、架空のものか定かではない。

 「戦いの巻物」には終末戦争の様子が描かれている。

 「宗規要覧」「ダマスコ文書」「ヨベル書」などの文書からは、共同体の様子が明らかとなった。

クムラン共同体

 死海写本が発掘された洞窟の近くには、キルベト・クムランとして知られていた廃墟があった(それゆえ、共同体はクムラン共同体と呼ばれる)。紀元六十八年にユダヤ人が武力蜂起した際に、ローマの軍隊が鎮圧するために来たが、彼らは、共同体内で作成された写本を洞窟に隠して難を逃れ、後に戻って来て取り戻すつもりであったらしい。

 共同体創設者は、「義の教師」と自称したが、大祭司職から追われて、死海のほとりの荒野に逃れて、自らの正統性を主張し、エルサレムの大祭司を否定した。独自の暦に固執したので、エルサレムの神殿での祭りには参加しなかった。

 また、共同体は、「義の教師」の律法解釈に基づいて世間から離れて「きよい生活」を実践していた。例えば、販売経路で異邦人の仲買人が仲介したり、不用意に異邦人が触れたりして汚れることがないように、自前でオリーブを栽培するなど、自給自足生活をして「きよい」食物を生産して生活の糧とした。

 さらに、乾燥した死海のほとりで、共同体が生活するには、水が不可欠であった。飲料水などの通常の生活用水だけではなく、毎日のように行うきよめの沐浴には大量の水が必要であった。水を確保するために水路が張り巡らされていたが、どこから、水を引いてきたかは定かではない。階段部分に地震で生じた地割れのある水槽と水路の跡だけが残されている。

 共同体は独身制で、私有物は供出して財産共有制で、聖書の研究と祈りと瞑想、そして労働に日々専念した。これは、中世キリスト教の修道院を彷彿とさせる。

 彼らは、「イスラエルのうちのイスラエル」、すなわち真のイスラエルと自負し、まだ啓示、預言が与えられる時代に生きていて、共同体の規則などは神から直接に与えられた啓示と理解していた。共同体の規則なども旧約聖書と同じ権威があると考えた。

 そして、自分たちは終末の時代に生きていると考え、ハバクク書などの終末に関する預言が共同体の歴史に成就されていると理解した。ここに、クムラン共同体と初代教会との類似点を見出すことができる。イエスも弟子たちも、自分たちは終末に生き、神から直接啓示された神のみことばを語っていると自認していた。

 旧約の預言が今まさに目の前で繰り広げられている出来事に成就している。旧約聖書の時代との断絶を認めつつも、キリスト教会は新約の神の民として旧約の神の民との連続性も意識していた。キリスト教会と比べれば、クムラン共同体のほうがより旧約の神の民との連続性が明瞭かもしれない。