新約聖書よもやま裏話 第15回 「家の教会」と立役者
プリスキラとアクラ

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生 使徒の働き18章で、ポント生まれのユダヤ人アクラが登場する。妻の名はプリスキラまたはプルスカ。ポントはビテニヤの東で、現在のトルコの北、黒海に面した地域のことである。こんなところにもユダヤ人たちがいたのだ。使徒の働き2章にも聖霊が降った五旬節の祭りのとき、ポント在住のユダヤ人たちがエルサレムに来ていた(九節)ことが描かれている。

同業のよしみ

 ポント出身のアクラとプリスキラ夫婦はローマに住んでいたが、四九年ころ、ローマ皇帝クラウデオがユダヤ人追放令を発布したため、コリントまで流れて来ていた。そこで、使徒パウロと出会ったのである。

 使徒の働きの著者であるルカは、アクラとプリスキラ夫婦が、どこでどのようにしてキリスト者になったかは書いていない。パウロが伝道したと想像することもできるが、使徒の働きに記述がないところを見ると、パウロと出会ったときにはすでにキリスト者であったとも考えられる。

 この夫婦は天幕作りを生業としていた。移動式住居や庇などの皮革製品を家内工業で製造し、販売していたものと思われる。同業のよしみで、コリントに滞在している間、パウロはこの夫婦のもとに身を寄せることにした。

商売をしながら

 この夫婦の住居が、店舗と一緒にあったのか、住まいに天幕つくりの作業場があって町の広場に出店していたのかは定かではない。いずれにしても現代のようなせっかちな世の中ではない。世間話をしながら客の注文を聞き、値段の交渉をして天幕を作り、のんびりと商売をしていたのだろう。

 パウロも、アクラ・プリスキラ夫婦と一緒に、天幕を作りながら、店に顔を出す客や通りすがりの人と会話をし、その間に、福音を語っていたのであろう。そして、安息日にはユダヤ教の会堂に出かけて、礼拝の中で旧約聖書に基づいてキリストの福音を語った。ユダヤ人たちの激しい妨害にもかかわらず、「一年半」の間(合計の滞在期間か)、パウロはコリントに腰を据えて福音宣教に勤しんだのである。

 ルカは、夫婦を読者に紹介するに際して、先に夫のアクラを、それから妻のプリスキラに言及している(一八・二)。ところが、次に二人の名前を記す際にはプリスキラのほうが、アクラより先に書かれている(一八節、二六節)。福音宣教における信徒の働き、特に「家の教会」で、妻プリスキラがより重要な役割を担い始めたと想像させてくれる。「家の教会」ともなれば、人の出入りは頻繁になり、場合によっては宿を提供することもあっただろう。一家の主婦はてんてこ舞いであっただろう。

アポロを招き

 パウロがコリントを後にするときには、プリスキラとアクラも同行した。エペソで伝道した後に、パウロはエルサレムを目指して出かけたが、プリスキラとアクラはしばらくエペソに留まった。

 そこで二人は、アレクサンドリヤ出身のユダヤ人アポロと知り合った。アポロは旧約聖書に精通し、霊に燃え、イエスのことを正確に語っていたが、キリストの御名につくバプテスマのことは知らなかった。

 二人は大胆に語るアポロの様子を見て、「彼を招き入れ」た。公衆の面前でアポロに手ほどきをして恥をかかせるのではなく、家に招いた。家でねんごろにもてなして神の道を解き明かし、アポロを一人前の伝道者に仕立て上げた。立派な伝道者となったアポロが、ギリシャ、当時のアカヤ州に伝道に行きたいと望んだので、二人は準備の手助けをしてやり、エペソからアポロを送り出した。

パウロの同労者

 二人の名前はパウロ書簡のうち三通に見出される。コリント教会へ宛てた第一の手紙は、第三次伝道旅行のとき、パウロがエペソに滞在していた間に書き送ったものであろう。

 使徒の働き一九章にあるエペソ伝道の記述では、プリスキラとアクラについては言及がないが、第一コリント一六章一九節には、二人からコリント教会へのあいさつが書き留められている。

 パウロが、まだ見ぬローマの教会宛にコリントから手紙を書き送るころには、プリスキラとアクラはローマに戻っていたようだ。二人を「キリスト・イエスにある同労者」と高く評価し、いのちがけで自分を守ってくれた、とパウロは賞賛している(ローマ一六・三)。

 獄中で自らの最後を覚悟しつつ、遺言として「愛する子テモテ」にパウロが書いたのが、テモテ宛の第二の手紙である。その最後の部分でも、パウロはプリスカとアクラにあいさつを書き送っている。二人はエペソに帰っていたのだろうか。

 天幕作りを生業とし、帝国内を縦横に旅をしながら、家庭を人々に解放し、「家の教会」を立ち上げる。プリスキラとアクラとは、福音宣教に従事する献身的な夫婦の様子を彷彿させてくれる。