新約聖書よもやま裏話 第3回 黙読はなかった 古代読書の習慣

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生 私たちは、読書と聞くとあたりまえのように、黙読する姿を思い浮かべないだろうか。

 ところが、古代では、大勢の人の前で朗読することや読み聞かせることが、より一般的な「読書」だった。ひとりでも音読するのが普通で、むしろ黙読のほうが珍しかった。夕飯後の娯楽、宴の余興として朗読を聴くことはあっても、ひとりで静かに本を読むのは、日常的な光景ではなかった。文字そのものを知っている人が少なく、書籍の部数が少なかったこともあるが、そもそも黙読の習慣がなかったのである。

 今では、音読するのは小さな子どもと相場が決まっている。赤子のころから親兄姉などが言語音声のシャワーを浴びせ、母国語はまず音声で習得する(もちろん、耳の聞こえないの方の場合は異なるが)。音声として言語を習得した後で、それと対応させて、文字を学ぶことになる。

 現代の日本の国語教育においては、漢字、ひらがな、カタカナ三種類の文字を使い分けるために、読み書きに相当の時間が費やされる。うまく音読ができるようになれば、次の段階として黙読へと進む。

 しかし、古代では黙読をせずに、音読や口を動かしながら読書するのが普通だったのだ。

 有名な話であるが、神学者であるヒッポのアウグスチヌス(『神の国』『告白』で有名)は、自分を信仰に導いたアンブロシウスが(口も動かさないで)黙読している姿を目の当たりにして驚いた、と書き残している。最初は何をしているかわからなかった、とさえ書いている。

 古代世界で、黙読ができたことで知られているもうひとりの人物は、ローマ共和制期の有力者ユリウス・カエサル(アウグストの叔父であり養父)である。

不備のある文字表記

 音声のない言語はないが、文字のない言語は存在する。文字は、そもそも読書をするために作られたものではなく、あくまでも話したことの覚え書きとして発明された。

 当初は交通信号機の「赤青黄」のように、記号としか受け止められていなかったが、徐々に言語を表記する複雑な文字体系にまで発達した。

 新約聖書を構成する二十七巻は、もともとローマ字と同じように表音文字(アルファベット)であるギリシヤ文字、Α・α(アルファー)、Β・β(ベーター)、Γ・γ(ガンマー)……で書き留められた。ギリシャ文字は、物理などの公式などでも、一般的によく知られている。

 当時は、単にギリシヤ文字を知っているだけでは、容易に読書あるいは朗読することができなかった。古代の文字表記には、まだ不備な点が多々あったからだ。

 大文字だけで、しかも単語と単語との間が区切られていなかった。たとえば、ヨハネ福音書三章一六節を英語で表記してみると、下記のようになる。
FORGODSOLOVEDTHEWORLDTHATHEGAVEHISONEANDONLYSONTHATWHOEVERBELIEVESINHIMSHALLNOTPERISHBUTHAVEETERNALLIFE
For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.
 上段には大文字で区切りのない表記を、下段には現代、使われている表記を記した。古代では上段のような文字を見ながら、頭の中で現在表記されているように区切らなければならなかった。速読はもちろん、黙読にも困難が伴うことがおわかりいただけるだろう。頭の中で文字を音声に変えながら、単語に区切る作業を頭の中でしていたのだ。

聖書を音読してみると

 聖書を読んでいて、同じ単語が繰り返されたり、似た表現が何度も使用されたりすることに気がついたことはないだろうか。そもそも聖書は、口述筆記され、朗読したものを聴くというものだったからである。表現を換えれば、聖書は話し言葉の要素が強いため、同じ単語や類似した表現が繰り返されることが多いと言える。

 意味上の区切りに、そのような手法が用いられた。ローマ人への手紙五章に繰り返される「主イエス・キリストによって」には、そういう機能がある。また、十章の「心」と「口」の反復なども、耳で読むとリズムを聴き取ることができる。

 私たちが思っている以上に、音読また朗読は重要なことかもしれない。原語のギリシャ語で、とは言わないまでも、邦訳聖書で音読、朗読をしてみると、新たな発見があるかもしれない。