時代を見る目 117 中高生に語る(2) 「語りのスタイル」を変える

田代 泰成
日本同盟基督教団 横須賀中央教会 協力教師
横浜女学院 聖書科教師

 「ただ信じれば救われる」という命題は、私が教える中高生たちには比較的よく伝わっています。しかし、次のように理解しています。「神の存在を認めるなら、その人は人生の危機を乗り越えられる」と。そこには、十字架で身代わりとして死んで罪を赦すイエスを、救い主として信じるという意味はまったくありません。「救われる」という意味も、堕落した人間は神の命から切り離され、永遠の滅びへと向かいつつある悲惨な現状から救われる、という意味で理解されているわけではありません。

 つまり、クリスチャンが理解している「救い」の意味が、日本人「特有の理解」のもとに変容し、誤解され、やがて、キリスト教への信頼性そのものが崩壊していきます。「信じたってなんもいいことないじゃん。キリスト教はうそっぽい」となります。その崩壊が学年の上昇に沿って増えていきます。

 さらに、もっと驚くべきことは、「ただ信じれば救われる」という命題に対し、「じゃあ、ただ信じない人は救われないないの? かわいそうじゃんねえ。それってひどくない?」と中高生は言うのです。彼らは、本人の責任じゃないのに救われないのは理不尽だと感じるのです。いわしの頭も信心から、という意味での「信じる」ことの「軽さ」が前提としてあるように思います。

 私たちクリスチャンが、普段語る「信じる」「救われる」というこのふたつの「動詞」が、「そのまま」日本という精神風土に入ると、まったく違った意味へと変化するのです。どんなに熱心に単純に、素朴に、大胆に、命がけで語ったとしても、この変化を防ぐ「語りのスタイル」を持たなければ、つまずきを与えてしまうように思います。

 現代の日本の若者に向けて、スタイルの変更を真剣に考える必要があります。これはミッションスクールだけの問題ではなく、伝道がなされるところどこにおいても、登場する問題であるように思います。私たち語るクリスチャンが、「信じる」「救われる」という言葉を、その背後にある深い意味をよく考え、どうしたら意味変化が起きないようにするか問われているように思います。