時代を見る目 144 神なき経済社会の中で(2) 祈りかつ働く

石戸 光
千葉大学助教授(国際経済論)
日本長老教会 ちはら台教会

 クリスチャンの実践的な経済活動の指針は、「祈りかつ働く」という言葉に集約されると思います。これは目新しいことでなく、宗教改革者カルヴァンらの主張した経済生活への姿勢です。ウェストミンスター小教理問答の問一に、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあるように、経済行為を通じても、神様のご栄光をあらわすことが人の第一の目的であるべきでしょう。

 二十一世紀の日本経済では、健全性はさておき、「お客様は神様」という価値観が蔓延していて、消費者が喜ぶ商品が第一に生産されています。このことは消費者には快楽を、生産者には売上増を、一時的にもたらします。そして消費者の無限の欲望を満足させるために、有限の資源が使われていきます。これが将来にわたって持続可能でないことは明らかなのに、です。おいしい高カロリー食を食べ、移動に便利な自動車を多用し、同時にダイエット商品も購入したい消費者の望むままに生産すれば、経済活動面での売り上げアップにはつながります。しかし、適度な食事をし、適度に運動をするほうが、より健全で幾世代にもわたって継続可能な生活だと言えます。

 肉体的な健康以上に、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの中で、労働への指針が示されるならば、経済行為は「自己目的」化せず、主に仕えるための「恵みの手段」として真の意義を保つのです。たとえば日本経済がまさに経験しているように、自己の利益のみを求め、過剰なまでに株式投資をすることによって関連企業の経営破たん等につながることがあります。破たんしてしまうのならば、投資しなければよかったのです。祈りの中でこそ、人は経済生活の意味とバランスが与えられ、結果的に地上の生活も祝福されるのではないでしょうか。

 一九世紀のフランス人画家・ミレーの描いた名画「晩鐘」は、教会から聞こえてくる夕刻の鐘の音に合わせて畑の上で祈り、労働への祝福を神に感謝するという、貧しいながらも平安に満たされた農民夫婦の「祈りかつ働く」姿がテーマとなっているように思えます。 二人で祈っていますから、畑の上ではあっても、そこはもう「教会」です。祈りとは、神様との内面的な営みであり、また同時に外面的な経済生活に不可欠で、非常に実践的な営みなのです。だからこそ、「祈りかつ働く」のです。