時代を見る目 182 子どもの世界<2>
キリスト者がこの世界で生きる意味

瀬底ノリ子
カンバーランド長老 高座教会/社会福祉法人星槎青葉台保育園勤務

 夏の終わり、明るい笑顔で多くの人を励まし、家族と周囲の人々に愛されていた若いお母さんが、急な病の中で天に召された。幼い末子はお父さんに抱かれ、姉弟は互いにいたわり合い、ひつぎの側から離れずにいた。共に子育ての喜びを分かち合い、助け合い、日々を積み重ねて来たお母さん達は、葬儀が終わっても、その場を立ち去ることができず、悲しみと不安と、嘆きの中で肩を寄せ合い、あふれる涙を止めることができなかった。

 「先生、私たちのためにお祈りして下さい」と一人のお母さんの言葉に、はっと我に返る思いだった。人々のいなくなった斎場の一角に神は聖霊を送って下さり、信仰を持つ者も、持たない者も、「主よ、私たちに平安を与えて下さい、みこころを示して下さい、私たちが生きる意味を示して下さい、あなただけが私たちの救いです」と祈る思いを起こして下さった。私たちは心を一つにして、心をこめて祈った。そして、涙を拭い、私たちが生かされている意味をもう一度確認しようと話し、手を握り、励まし合い、やっと帰路につくことができた。

 私たちは、人の思いや力で解決することのできない重い現実に直面し、その事実を受けとめ、そこから一歩踏み出して歩み続けなければ明日を生きることはできない。その一歩を踏み出す力は神を見上げ、神に求めるとき確かに与えられる。「私たちのために祈って下さい」とキリスト者である私たちはあらゆる場で求められていることを痛感させられた。

 マルコの福音書6章33節以下の記事を思う。「イエスは……多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」。そのとき弟子たちは自分たちの目の前の現実-もう夕方になり、空腹をかかえた群衆にどう対処すべきなのか、私たちには何の対策もないという現実しか見ることができず、イエス様に対し、群衆の解散を提案。それに対して主は「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と、弟子たちに命じたのである。

 この世のたくさんの重い現実、無力な私たちにはどうすることもできないと、その事実の前に茫然と立ちすくんでしまうような事柄に対しても、主は「あなたがたの手であの人たちに何かをしなさい」と命じられる。キリスト者が、この世界で生きる意味は、そこにある。主が栄光を現して下さることを待ち望みつつ周囲の人々と共に歩みたいと思う。