時代を見る目 199 信仰の落とし穴 [1]
「クリスチャンの最初のつまづき」

東後勝明
早稲田大学名誉教授

あるとき家内と、知人についてこんな会話の一コマがあった。
私「あの人、いろいろ言われているけど、とてもいい人だったよ」
家内「そう、それはよかったわね」
私「うん、本当に素晴らしい人だった。クリスチャンではないんだけど」
家内「クリスチャンでないから、いい人なんじゃない」
私はことばに窮した。
このとき、二人はなぜこんなやりとりになったのだろう。私には「クリスチャンはいい人」という思いこみがあったため、ついそのように言ってしまった。その思い上がりとも取れる私のことばに、家内は皮肉を交えて私をたしなめたのである。
このあと、家内のことばは、こんなふうに続いた。
「そうじゃない? 教会に行ってご覧なさい。いろんな人がいるでしょ。だから私でも行けるのよ」とさらりと言ってのけた。これには少々驚いたが、言われてみれば確かにそうだ。
教会が素晴らしい人ばかりの集まりなら、眩しくて仕方がないだろう。自分もそのようにならなければと思っているだけで疲れてしまう。足はいつのまにか遠のくのではないか。
そのうえ、あの分厚い聖書を読まなければならないとなると、開いて見ただけで億劫になってしまう。心の安らぎを求めて教会に来たはずが、なんとなく息苦しくなり、「神様ってどこにいるの」と言うことになりかねない。
信仰の最初の落とし穴はこんなところにあり、多くの人がここで足を取られる。私たちはどうしても一つひとつの物事に「こうあらねば」「こうすべきでは」と思ってしまい、聖書をまるで人生のルールブックのように考え、一つひとつのルールに従おうとする。
しかし、神に従っているつもりが、いつのまにか神をも味方につけ、自分が働いてしまう。誤解を恐れずあえて言えば、聖書のことばは神のことばであり、人間の私たちがそのことばどおりになど所詮できる訳がない。私たち人間にできることはその神を信じ、自分のすべてを、生きることも、死ぬことも神に委ねていくことである。
このことを通してはじめて私たちは解放され、福音の恵みに満たされるのではないか。
神様は信じた人にのみ存在し、信じた人にのみ現れ、信じた人にのみ働かれる。この「信じる」ということを抜きにして、信仰は成り立たない。
次回はこのことを共に考えてみたい。