時代を見る目 83 罪ある者として

時を刻む目盛り
碓井 真史
新潟青陵大学 看護福祉心理学部 教授

 少年による犯罪は、長期的に見れば減少しています。特に凶悪犯罪は、激減しています。たとえば少年による殺人は、ピーク時の三分の一、四分の一にまで減っています。それなのに、犯罪の増加、凶悪化が進んでいるように思えるのは、補導歴もない「ふつうの子」による「いきなり型」犯罪が増加して、大きく報道されるからです。劣悪な環境で悪いことを繰り返していた人が、とうとう大きな犯罪を起こしても、大して注目されません。ところが、真面目な優等生がいきなり殺人事件などを犯すと、世間は驚いて、マスコミも殺到するわけです。

 ふつうの家庭、立派なお宅の良い子、まじめな夫、もの静かな妻が、突然凶行に走ります。彼らは、心に大きな問題を抱えながらも、模範的な生き方、平和な家庭の外見を維持し続けようとし、ついに破綻して犯罪に至ります。いじめられたり、会社や近所の人間関係に苦しめられたりして、ストレスがたまり、心が苦しくても、家族にも話せないまま、表面的には平静を装い、絶望と孤独に押しつぶされていきます。

 私たちはみな罪人です。弱さを持っています。その罪人が集まって、一緒に暮らしていれば、問題が起きるのは当然です。しかし、現代人はなかなかそれを認めることができません。私たちの社会が、清潔で明るく、豊かで平和であって当たり前の社会になってしまったからでしょう。

 私たちはみな弱く、傷つき、罪を犯す。「義人はいない、一人もいない」(ローマ3:10)。罪の性質を持っているのに、それを認めようとしないのが、現代人です。そのために苦しんでいるのが、現代人です。人間関係が希薄になる中で、自分だけがだめな人間だと思いこみ、家族にも迷惑はかけられないと一人悩み、自分を追いつめます。

 自分も、家族も罪人だと認める。弱さや問題の存在から目を背けない。自分の中の問題や心の傷は、隠そう、忘れようと思っても、解決しません。対決が必要です。自分の弱さを認めるには強さが必要ですが、それは神が与えて下さいます。赦されている確信があるからこそ、罪の性質を認めることができます。クリスチャンだからこそ、辛くても、問題を直視することができるはずです。そして問題を抱えている人とともに歩むことも、できるはずです。

 教会の中で、模範的クリスチャンを演じなければならないとしたら、ちょっと困ったことですが.……。