死をおそれないで生きる インタビュー 細井 順 さん
(ヴォーリズ記念病院ホスピス長)

三つのキーワード

 細井さんは岩手県盛岡市の生まれ。小学二年生のとき、医師だった父の異動で京都に引っ越し、以来、大学卒業まで京都で育つ。クリスチャンホームで、物心つく前から教会に通い、中学一年生で受洗した。

 「私のキーワードは、医者の息子、クリスチャンホーム、ひとりっ子。この三つがそろっていたら、どんな育てられ方をしたか、だいたい想像できるでしょう」と細井さんは笑い、こうつけ加えた。「人から裏切られることもなく、自分の思いをそのまま受け止めてもらえたから、今、人の思いをそのまま受け止められるのかもしれません」

キリストとの出会い

 父親だけでなく、四人の叔父が外科医。細井さんも「父親と違うところで身を立てようというガッツもなかったので、何となく」医者を目指し、医学部を受験するが、最初の年は不合格だった。

 浪人時代のある日、予備校の前で配られていたトラクトを受け取り、何となく読み始める。放蕩息子のたとえ話が書かれていた。幼いころから何度も聞かされた話だったが、そのとき突然、キリスト教の本質である神の愛に目が開かれたという。

 「自分がどれだけ恵まれた環境にいるのかがわかったのです。初めてキリストと出会った瞬間でした。こんなに幸せな青春時代を過ごせているんだから、人のために何かをしなければと遅まきながら、本気で医者になろうと思いました」

 志を新たに翌々年医学部に入学。医師への道を歩み始める。

外科医のジレンマ

 卒業後は外科医として大学病院に勤務。外科を選んだのは、叔父たちの影響とともに、性格に合っていたからだという。

 「いろいろな可能性を考えて慎重に対処する内科と違い、外科は悪い部分を取ってしまって、すぐに結果が出る。簡単に人を治せて、喜ばれやすいかなと」

 堅実に外科医としての地歩を築いていた細井さんだが、十年を過ぎるころから医者としての自らのあり方に疑問を感じるようになる。

 「手術が成功した患者さんが退院していくときには一緒に喜べるのですが、再発して再入院ということになると、外科医としては打つ手がない。回診でも、治っていく患者さんには朝一番に行けるのですが、治る見込みがないとなると後回しになる。ひとりひとりの患者さんに最後までトータルにかかわりたい、寄り添いたいと思うのですが、そうはできないですから。外科医を長くやればやるほど、患者さんとの関わり方についてこのままでいいのかなというジレンマが強くなっていました」

 少しずつターミナルケア(終末期のケア)の本を読んだり、研究会に出席するようになったが、そうした関心は、外科教室の一般的な考え方とは相容れなかった。大学病院で亡くなった患者の遺族を追跡調査してみたいと提案した際には、教授から「外科医にとって必要なのは、そういうことではない」と却下された。

 自分の目指す医療と、現実とのギャップに悩む毎日。結局、十五年務めた大学病院を辞め、一九九三年に淀川キリスト教病院に移る。

父の死からホスピス医へ

 淀川キリスト教病院は、一九七三年に日本で最初にホスピスケアを行い、一九八四年には国内二番目のホスピスが開設された病院である。

 細井さんは、そこで外科医として勤務するかたわら、日本のホスピスの生みの親・柏木哲夫氏(現・同病院名誉ホスピス長、金城学院大学学長、学院長)に自らの思いを聞いてもらうようになった。また、礼拝から日々の業務がスタートする環境下で、クリスチャン医師としての信仰が強められていったという。

 そんな折、一九九五年に、細井さんの父親が末期の胃がんであることがわかった。同病院のホスピスに入り、一週間後に亡くなった。

 「初めて家族の立場で医療現場に立ち会ったわけですが、医師が患者の目線で目と目を合わせて話す様子などホスピス医の姿に、医療のあるべき姿があるなと感じました。まさに目からうろこの体験でした」

 自分が求めていた世界がそこにあると痛感した細井さんは、柏木氏に相談し、年度替わりを待ってホスピスに移った。

 「自分が何かをするのではなく、患者さんを生かそうとする姿勢は、それまでとはまったく違うものでした。また、外科医というのは、どれだけ難しい手術を自分がこなしたかという、個人のパフォーマンスの世界。一方、ホスピスというのは、みんなで力を合わせて患者さんのケアをする。その和気あいあいとした一体感が心地よかった。自分中心の世界から、ほかの人を生かそうとする世界への大きな転換でした」

 淀川キリスト教病院でホスピス医として二年間務めた後、愛知国際病院へ移り、県内初となるホスピスを立ち上げる。