現代社会のサバイバー 第5回 証し人として歩む

安藤理恵子
キリスト者学生会関東地区 主事

証しを続けられない私たち

  時代そのものが忙しいので、聖書についてゆっくり話したり証ししたりするタイミングがない、と私たちは感じます。誘っても断られるだろうし、自分自身に余裕がないのでいいかたちで証しできるかどうか自信がないし、いつもの自分の姿は証しになっていないだろうから、クリスチャンであることも言わないでおいた方がせめてキリスト教会の評判を落とさないですむだろうと考えます。しかしいつあなたは余裕を持てるようになるのでしょうか。暇になったら本当に証しをするのでしょうか。そして暇になるような日は日本に来るのでしょうか。

 キリストを証しすることについて、私たちは自己流の解釈をすることによって状況を見限っていることがよくあります。相手の反応が悪いと、やる気もなくなるし腹も立つので「この人は見込みがないな」と早々に結論を出してしまいます。偶像との付き合いが長い人と関わると「悪霊に捕われているから心が閉じられている」と考えて、他の人以上に病的に頑なな気がして、祈る以外にどうしようもない思いになります。しかしそもそも罪人は誰もがサタンの支配下にあるのであって、祈り抜きで救われる人などいないのです。「救われやすい」人間がいるわけではありません。人が救われるかどうかは全能者のみこころであり、主に不可能はないのです。継続して教会に足を運んでいる人でも、キリストを唯一の主と信じるにははるかに遠い人もいます。教会の人の輪に交っていることが、その人が神の子だという保証なのではありません。まだまだ興味を持っていないような人にも、あと一歩で信仰を持ちそうな人にも、もう信仰があるのではないかと思えるような人にも、私たちはキリストが生きておられることを同じように証言することに召されています。主が御業を行っている最中に、私たちが先にあきらめてはならないのです。

救いの業に参与する

証しをする生活を選び取るために私たちに必要なことはなんでしょうか。 第一に、証しをするための原動力を、自分ではなく神に求めることです。多くの人は、自分の中に滅びゆく魂への同情心があれば証しできると考えるでしょう。しかし私たちの同情心は相手の反応次第で簡単に萎えてしまいます。無関心や反発に出会うときにも、伝える意義と必要性を確信し続けるためには、自分の気持ちではなく神の意志を自分の中心にすえるのです。時が良くても悪くても福音を証しするのは主のご意志。私たちはそれに従うのです。

 第二には、自分の考える予定を相手の人生に期待しないことです。この集会でこういう気持ちになってくれればと誰もが願い祈りますが、それぞれに主のご計画があります。あてが外れてもがっかりせずに御業をつづけておられる主に期待しましょう。私たちの小さな労苦が主の栄光が現れるプロセスとしてきちんと積み上げられていることに感謝し、さらに積み上げていきましょう。

 第三には、神は自分以上にその人を愛しておられることを思い起こし信頼することです。私たちの愛情深さが人を救うのではありません。愛なる神がはじめから救いを定め、私たちを導かれたようにその人にもご計画を果たされます。主の確かな主権に目を留めるとき、焦りやあきらめは消え去ります。むしろ堅実な証しの生活によって、この方と共に働こうと思いませんか。

 人が救われる主の働きに参与することは、私たち自身の心の目が開かれる機会となります。ひとりの魂の頑なさに出会うとき、あなたは救いが神の御業以外の何ものでもないと悟るでしょう。ひとりの魂が駆け寄って主を信じるのを見るとき、あなたはやはり、救いは主のものであることを知るのです。