福祉と福音
―弱さの福祉哲学 第7回 側面から支えるということ

木原活信
同志社大学社会学部教授

「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは」(雅歌3章5節)

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長年、わが家の庭で陸亀を放し飼いにしている。もうかれこれ数十年の付き合いである。放し飼いといっても、庭には大好物のタンポポ、クローバーなどの野草を植生しているので、亀たちはそれを食べて生きていくことができる。そこで産卵もした。寒い冬になると冬眠する。今も、地中に潜って眠っている。こうして春まで土の中でひたすら眠る。そして、春を待つ。よく、亀飼育の秘訣を尋ねられるが、基本は自然に任せる。亀が自分で目覚めるまで、無理に起こさない。亀自らの意思を尊重する。かといって放任でなく、常に心配(ケア)しつつ、傍らにそっと寄り添ってひたすら待つ。これが二十年以上の経験から得た亀の愛育哲学である。
冒頭の雅歌のように亀が目ざめようとするまで、「揺り起こしたり、かき立てたり」せずに、忍耐して愛をもってひたすら待つのである。

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福祉の援助者とサービス利用者からなる専門的援助に秘訣があるなら、それは、援助者は黒子に徹して、利用者が「目ざめたいと思うときまでは揺り起こしたり、かき立てたりしない」ということであろう。つまり、利用者自身の「自立」を、いかに陰で側面から促していくかということである。
英語の「援助」(help)を用いた文章構造「主語+help+人(目的語)+動詞」に重要なヒントがある。つまり、援助者(主語)は、利用者(人)が何かするのを助けるという構造である。
例えば、Jiro helped Taro (to) pass his exam.(二郎は太郎が試験に合格するのを助けた)は、二郎が試験を受けるのでなく、あくまで試験を受けるのは太郎である。二郎は側面から手助けする。援助者が、直接に利用者を援助するのではない。「利用者が自ら……するのを」支援するのである。もし利用者が……をしないなら、支援できない。
サミュエル・スマイルズが『自助論』(Self Help)で述べた、「天は自ら助くる者を助く」というのもこれと同じである。これは日本では馴染みにくいが、英語圏では、無意識のうちに浸透しており、自立の発想の根幹をなすものであり、福祉の援助もこれと同じである。
電動アシスト自転車というのがある。私も愛用しているが、これはモーターバイクではない。バッテリーがついている電動式で、必要に応じて人が自転車を漕ぐのを助ける。しかし、漕がなければ電動アシスト機能は作動しない。坂道などで、助けが必要となれば、人が自力で漕ぐことを前提として、それを電動機能が助けるというしくみである。あくまで人が漕ぐのをサポートする。つまり、モーターバイクのように常にエンジンが作動するのではない。
これは、先のhelpの構造や自立を側面から支援するという発想とよく似ている。すなわち、利用者が自らを助けようとするのを側面から支援するのである。福祉の理論で注目されている、エンパワメント、ストレングスというのも同じ発想である。人々に物(金銭)を与えておしまいというのではなく、人々がそれによって力を得られるように側面から支援する、という発想法である。
土居健郎は、著書『「甘え」の構造』(弘文堂/一九七一)で、日本人の援助関係が「誰々に……してやる」「誰々を助けてやる」となりがちであることを示唆した。その場合、助けられた人は、助ける人に「甘える」という依存関係、あるいは助ける人は助けられる人に「してやる」というような支配関係に陥りやすくなる。モーターバイクのように、モーターに依存して、人間は漕ぐ必要がなくなる。そのような依存はさらなる依存を生み、やがて自立を不可能にさせる。これは、日本人が陥りやすい援助関係を示している。聖書における福音書のいやしの場面を注意深く読むと、イエスはいやされる側の「よくなりたい」「自分の足で歩きたい」という意志に対して働きかけていることに気づく。イエスは、相手が意志をもって信頼(信仰)し、求めてきたときに奇蹟をなし、そして「あなたの信仰があなたを直した」とその人の意志と信仰を意識させる。
奇蹟というのは実際には神の力(恵み)が百パーセントのぞんで、人間の不可能を可能にさせることであるが、あえて人の信仰と意志に焦点をあててその自覚を促すというのは、この自立を側面から支えるという発想とつながっているように思える。