福祉と福音
―弱さの福祉哲学 第8回 老いのカイロス

木原活信
同志社大学社会学部教授

ある特別養護老人ホームで、教会のメンバーと一緒に、毎月「童謡と賛美の集いの会」を続けている。
もうかれこれ五年以上になろうか。私も時々、クラシック・ギターでの伴奏と賛美、ショート・メッセージのお手伝いをしている。最近は、認知症の方々も多く参加されているが、不思議と音楽を介すると自然な笑顔が生まれ、なつかしい童謡を歌っていると、気難しい顔をされている方々が「少年」「少女」に戻られるようだ。
「ふるさと」を歌いながら、故郷の亡きお母さんを思い出して涙する方もおられる。子どものころ教会学校に通っていたという方は、「主我を愛す」「いつくしみ深き」を大きな声でうれしそうに賛美しておられる。職員によると、この「童謡と賛美の集い」を楽しみに待っておられて、毎日、詰所にこの日程を確認しに来られる方もあるほどらしい。
いつもぶつぶつと、何かに不平を漏らしている認知症のYさんが、この日は「ふるさと」を歌っていたら、急に表情が変わり、大粒の涙を流してうれしそうに歌いだされた。なんでも故郷の優しかったお母様を想い出したとか。故郷の美しい原風景を語りだした。なんと美しい感動的な話であることか。「主我を愛す」をともに大声で賛美し、一瞬でもこの方の気持ちに寄り添え、心温まるうれしい至福の時であった。
そして、満足のうちにその日の集いも終わって、帰り際、Yさんに、「今日はご一緒に童謡と賛美を歌えてよかったですね」と話しかけた。するとなんと、Yさんは「あなただれですの?」と突き放したように、敵意に満ちた表情で質問をされる。「今、ご一緒に賛美した者ですが……」と言ったが、「はあ? 何ですの?」とまた不機嫌な姿に戻ってしまっていた。
さすがにショックだった。せっかく気持ちを共有できたと思っていただけに反動がきつく、逆に、何か罵られたようなみじめな淋しい気持ちになった。ジェットコースターで上から下へ落とされたような感情の揺さぶりを感じた。
共有したと思っていた、あの一瞬は一体何だったのか。家に帰っても、しばらくこの気持ちは整理できなかった。

     *

聖書で、時を刻む言葉には「カイロス」と「クロノス」という二つがあることを思い出した。
クロノスは、人間に共通に平等に流れる時間。いわゆる普通に流れる時のことである。それは、時計の刻み(時刻)、一日二十四時間、一年三百六十五日を機械的に、例外なく流れていく。これに対してカイロスは「神の(介入する)時」「永遠の時」「転機となる重大な時」である。それは一瞬一瞬のチャンスを意味づけそれを刻んでいく。福音とはイエスを通じ、人間の時(クロノス)に神が介入して、永遠の時(カイロス)となったことを示唆する。
そうすると、あのときYさんと一瞬に「ふるさと」を歌いながら共有できた二人の時間は、まさしく神がくださった至福のカイロスの一瞬だったのではなかろうか。しかし、それは地上では永続しない。確かにYさんは、「あなただれですの?」と再びクロノスの時間の中に戻っていかれた。
ところで、最近、話題になったNHKスペシャル・老人漂流社会「認知症800万人時代 〝助けて〟と言えない孤立する認知症高齢者」(二〇一三年十一月二十四日放送)は、日本にとって避けることのできない社会問題である「認知症」を扱った番組であった。認知症の問題は、高齢化した教会でも例外ではない。当人やその家族の抱える悩みは筆舌尽くしがたいほど深刻である。
この最も深刻な高齢者問題に対して、福音が示していることは、このカイロスとクロノスの理解であろう。ヨハネ三章でのイエスとニコデモの問答は、カイロスとクロノスの差異が際立っている。地上の時間(クロノス)しか認めることができなかったニコデモに対して、上から(新しく)与えられる永遠の命(カイロス)を説くイエスの対比は興味深い。また、復活したイエスがエマオの途上で弟子たちと出会ったあの一瞬などは、まさにカイロスの時であり、永遠の喜びの時である。それを地上で一瞬垣間見ることができた幸いなものであった。しかし地上ではあくまで垣間見るだけであって永続しない。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」(ルカ24・32)という瞬間は、何ものにも代え難い喜びをもたらした。
認知症の深刻な介護課題を「クロノス」の課題だけで捉えたならば、それは挫折感と失望とあきらめかもしれないが、「カイロス」として捉えるならば、そこには喜びの源泉を見いだす糸口になる可能性がある。