福祉を通して地域に福音を 第8回 和解の指切り


佐々木炎

 小野信夫さん(仮名)は八十歳代で、七十歳代の奥様と娘さんご家族と同居しています。中小企業を創業して四十年間、信夫さんには「人と時代に媚びることなく自分の力でやってきた」というプライドがありました。

 昨年の夏、信夫さんは腹痛が続き、病院に行くと直腸ガンの末期で余命二週間と診断され入院しました。しかし一週間後、信夫さんは無断で病院を出て這うようにして帰宅。医師や看護師、家族の説得にも頑として応じず、「おれは家にいる」と言ったきり自室に閉じこもりました。困り果てたご家族は、ホッとスペース中原に介護の依頼をしてきたのです。

 私が訪問すると、信夫さんは薄暗い部屋で布団に横たわり、「介護はいらない。早く帰ってくれ」とだけ言って横を向いてしまいました。信夫さんの体はやせ細り、糞尿と身体の悪臭が部屋中に漂っています。栄養・水分不足であることは明らかで、介護用ベッド、清拭、オムツ交換、医療的処置などやるべきことが山のようにあると思いました。私は、まず依頼されたオムツ交換をしようと優しい口調で何度も声をかけましたが、強い拒否にあい、とうとう怒りを露わにしたため退散しました。

 信夫さんは入院を強行した医師や家族に極度の不信感を抱いているようでした。しかし、家族は私に「あなたはプロなんだから、なんとかオムツを替えてください」と言い、どうにもならない現状に苛立っていました。

 私は、余命わずかな信夫さんとその家族が、このままいがみ合って別れることは、お互いにとって悲劇だと思いました。そこで無理やり介護するよりも、信夫さんがなぜ強い拒否の態度を示すのか、まず傾聴して受けとめようと思い、家族の皆さんにこう問いかけました。

 「皆さんは、お父さんが死んだら、すべて終わりだと思っていますか。私は牧師でもあります。私が信じている聖書によれば、死は終わりではなく、永遠の始まりです。神様は、死んだ後、すべての人がもう一度会うと言っています。

 このままお父さんと不仲のままで終わりにしますか。それとも、向こうの世界で笑って再会して『お父さん、あのときは頑固だったわね。でも、お父さんの思いを大切にしたわ』と言い、お父さんから『わがままを通してすまなかったな。本当にありがとう』と言われたいですか」

 この話のあと、ご家族はふっと我に返り、お父さんの身になり、また天国のことを思ったようで、こう答えました。

 「このまま、父らしく逝けるようにしてやりたい」

 それで私は、もう一度信夫さんに会い、この家族の思いを伝えました。そして娘さんは父親に問いかけました。

 「お父さん、お父さんのことわかってあげられなくて、ごめんなさい。私、お父さんの子で良かった。向こうの世界に行っても仲良く一緒に暮らしたいわ」

 その言葉を聞いて、信夫さんは朦朧としながらも目を開き、布団の中からゆっくりと手を出しました。そして小指を出して、娘さんの小指と絡めたのです。翌朝、信夫さんは愛する家族に見送られて安らかに旅立っていきました。

 人は時に、たとえ理にかなわないことでも、あえて一途に守り通したいものがあったりします。信夫さんは東北から上京し、結婚して川崎に居を構えました。ゼロから町工場を起こし、今まで守り通してきたのです。不景気のときも、仕事に追われているときも、自分の「城」で奥さんと子どもたちと暮らしてきました。「家族と、家で過ごす」ことが長く彼の生きる意味だったのかもしれません。それは最期のときまで信夫さんが貫きたい、大切な思いでした。

 しかし、家族は大黒柱の死期が近いことに混乱して、信夫さんの本当に大切にしたい気持ちがわからなくなり、軋轢を引き起こしてしまったのです。ただ、それは決して悪いことではなく、お互いを尊重する作業の始まりなのです。その先に、その人の思いを知り、生きることを支え、人生の完成をともに作る介護ができるのです。


 私たちには、ときに命よりも大切にしたい価値観があります。生きがいや役割、関係性、願いや望み、夢、宗教など、人はその価値観をわかって欲しい、認めて受けとめて欲しいと願っています。これを介護では「承認」と言っています。この承認から、自分らしく生きる力が生まれてくるのです。だからこそ、私たちは、他者に承認を与える大切な役割があるということも忘れてはいけないと思います。

 そして究極の承認は、次元を超え、人を超えた存在である神様から与えられます。私たちが最期を迎え、一人ひとりの価値観が神様によって承認されたとき、死の先にある神の国を、懐かしい他者とも共有することができるのです。そこにはきっと真の赦しや慰め、希望があるはずです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(第二コリント 一・四)