私の子育てこれでいいの!? 第7回 ママ、おこらないで

グレイ岸ひとみ

 先日、幼稚園と小学校から帰った子どもたちにおやつを出し、私は台所にまわり、朝からたまっていた皿洗いを始めました。午前中、忙しくしていたため、家の中は朝の慌しさそのままでした。気持ちが落ち着かないまま、洗っていると、子どもたちがおやつを巡ってけんかに。

 「やめなさい!」「座りなさい!」「こぼれるよ!」「もうおやつ取り上げるよ」「たたかないっ」、そしてだれかの泣く声が……。鬼の角を出したまま、やさしく慰める技を披露しました。

 そのあとで遊び出した三人。私は、相変わらず洗濯物を取り込み、たたみ、掃除機をかけ、忙しく動きながら、「仲良くね」「だめよ」「返しなさい」などなど、まるで警察官になったかのような命令口調。「あ~いやだ。怒ってばかりだわ」とそんな自分がいやになりました。

 子どもたちも疲れているのはわかっていますが、ママも家事が落ち着かないとイライラする。「外で遊んでて!」と言えればいいのですが、私も一緒に行かないと下の二人はまだ危なっかしいし。それにその日は雨が降っていました……。はぁ。


 怒ることとしかることに違いがあることに気がついたのは、下の双子が幼稚園に入る歳になったころです。言うこと、やることが派手になって、私が怒ることもしかることも増えてきたからかしら。先日のように私にゆとりがないときは、怒ってばかり。一方的に感情とことばをぶつけているだけという感じです。

 そんなとき、わが家の子どもたちは、あまり真剣に聞いてはくれません。「ママ、怒ってるでしょう」「ママ、その声がいやだ」。なんて言われてしまいます。はっとさせられます。

 子どもをしかることは、「しつけ」と大きく関係してくるのだと、子育てをしながら学んでいます。でも、この「しつけ」こそ、家庭や文化や社会が大きく影響していると思いませんか? わが家の娘たちは、日本では、よく言えば「のびのび育ってる」、悪く言えば「しつけがルーズ」って思われるほど元気です(長女は長女らしいですが)。でも、アメリカに里帰りすると、行く所々で、「天使みたいにいい子ね」と言われるのです。「えっ」と耳を疑います。

 専門家もいろいろなことを言うので、「しつけ」に関して、正直なところ混乱しています。

 お尻はたたいてもいいと子育ての本にある一方で、お尻をたたくことは暴力を教えることに、と言う小児科の先生も。しかるときは冷静に堂々と、怒りの感情は出してはいけない、とアメリカ人の家族カウンセラーの先生。でも、私が小学校のとき通っていたスイミングクラブでは、制限タイムで泳げなかったら、コーチの怖いおしかりが待っていました。実際の子育ての現場では、静かに教えるように言い正すことができるときもあれば、少しでも怒った感情を出さないと伝わらないときもあるし……。


 ある日、私があることで真理をしかっていたときのこと。

「ママ、真理が嫌いになったの?」
「そうじゃないよ。ママは真理が大好きだよ。だから、今度ちゃんとできるように教えてあげてるのよ。」
「でも、今は真理が嫌いなの?」
親の意図とは全然違うメッセージを、感受性の強い真理は感じていたようです。喜怒哀楽の激しい舞香をそれなりにしかってるときに、「ママ、舞香に怒らないで」と言って、止めようとするのはいつも真理なのです。

 子どもって自己中心で、手をやかせて、親を困らせる反面、すごく純粋で、好奇心旺盛で、やさしくて、愛されたいと思っていて、か弱くて。そんな子どものきれいな領域を、大人の私は踏みにじってはいけない。「育て」てあげなければ。

 「しつけ」や「しかる」行為の裏に隠れて、気をつけないと親や社会の基準や都合に、子どもを押し込めようとしているにすぎないこともあるのかもしれません。各家庭の価値観のもと、しっかりしつけることは大切。同時に、子どもたちの生まれ持った存在価値、人格、可能性を摘んでしまわないように心がけながら。そんなことを、子どもたちから学んでいます。

 神様ご自身が、私たちをコントロールせず、愛をもってそばにいて、励まし、慰め、教え、育て、どこまでも信じてくれている。だから、大丈夫。神様から学んで、子どもの可能性を信じて、自信をもって、愛をもってしかればいい。

 言うは易し。今日も「言うこと聞かないとお尻たたくよ!」と言っている自分が情けなかったです。これって、「しつけ」ではなく「脅し」?