米国で活躍する福音派クリスチャン
――海を越えて、つながる信仰 日本の皆様へフィリップ・ヤンシーより

フィリップ・ヤンシー

『神を信じて何になるのか』
フィリップ・ヤンシー 著

日本のようなキリスト教の背景のあまりない国々では、「神様を信じて何かいいことあるの」という質問が出ます。また西洋の国々でさえ、このような質問がクリストファー・ヒッケンズやリチャード・ドーキンズのような宗教懐疑者からよく公に出されるのです。いろいろなスポークスマンが、「新しい無神論」ムーブメントのリーダーたちと公開討論会をしています。
私はこの問いに、一人のジャーナリストとして異なるアプローチをしてみました。このたび出版された『神を信じて何になるのか』の中で、六か国をまわり〝信仰があると本当に良い違いがあるのかどうか”の解答を求めて旅をしてきたのです。
今、その経験を振り返って〝大きな違いがあった”と結論づけることができます。キリスト教会の失敗(ヨーロッパの十字軍、スペインの宗教裁判、セイラムの魔女裁判など)は大きく、ちゃんと報道されていますが、その中で私は見過ごされている良い面での貢献に焦点をあててみました。

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まず、キリスト教の信仰はより広い文化に巨大な影響を与えています。
海賊の歴史的な事件などを読んですぐ、スウェーデンに初めて行ったときのことを思いだしました。二百五十年にわたりヨーロッパの人たちの祈りは「主よ、海賊からお救いください。アーメン」という祈りでした。しかし、今スウェーデンに行ってみると、人々は慈善に満ち、清潔で正直、そしてもてなしにあふれています。人殺しといわれた海賊から、この称賛すべき社会へと変えたのは何か。キリスト教です。何世紀もかかりましたが、徐々にクリスチャンの福音の道徳的原則が社会に浸透、影響を与えていったのです。
繁栄、堕落、自由を見ていくと、一、二の例外(日本とシンガポール)を除いて、最も繁栄し、自由で、堕落に対して反対していた国々には、キリスト教の遺産、伝統があります。西ヨーロッパのような国々の中には、教会出席者の数が減少しているところもありますが、どの国も過去のキリスト教に道徳的ルーツをおいています。中国の無神論政府はこの真理をよく知っているゆえに、ある意味ではキリスト教に対しての制限を緩和してきています。
第二番目に、キリスト教の信仰はコミュニティーに影響を与えています。
ニューオリンズに行き、そこの住民に尋ねてみてください。彼らは、洪水が起こればすぐに政府から巨額の援助が入ってくるが、その援助は大きな波のようにすぐ消えていったということを教えてくれるでしょう。
しかし、ヒューストン、ダラスのような近くの町から、教会のグループがニューオリンズにきて、派手ではないけれど大切な働きを長期的に進めています。同じように、アジアで起きたクリスマスの津波のときにもワールド・ビジョンや他のキリスト教の救済団体が助けに入っているのです。
私は本書に、バージニア工科大学や、たまたまテロ攻撃のときに滞在していたインド、ムンバイの章を入れました。危機に直面すると人々は本能的にすぐ慰めと希望を得ようと信仰に頼ろうとします。二〇〇一年九月十一日のときにも、私の教会では礼拝がないのに人々が自然と集まってきました。危機に直面したとき、ほかに行けるところがあるでしょうか。
最後に、信仰は個人を変えます。
人身売買の犠牲者たちの援助団体の会議を訪問したことがあります。そのとき、元売春婦たち(かれらは性労働者とよばれるほうを好むが)と何度も面談をしました。テレビでは売春婦のことが魅力的に紹介されますが、貧困の国々の場合はそれとは程遠く、多くの困難、虐待に直面しています。そんな中でも、神が自分を愛していることを知ったとき、神の赦しを知ったとき、本当に変えられたという証しをしてくれました。アルコール依存症から解放された人たちも、数え切れない誘惑から助けてくださったのは「偉大な力」を持つお方がいたからだと証ししてくれたのです。
本書では、私が死に直面したときのことも語っています。フォード車のエクスプローラーでコロラド州の雪道を走っていてスリップし、転落してしまったのです。結果的に首の骨を折ってしまいました。折れた骨が大動脈に達しているかどうか医者が七時間にもわたり調べたのですが、もし大動脈まで達していたら、いのちはありませんでした。
「電話をどうぞ。家の方に電話してお別れを言っておいたほうがよいでしょう」と、医者が言いました。
そのとき悟りました。今まで心配していたことなど、この時点では何の関係もない。いくらお金をもうけたとか、何冊本を書いたとか、どんな車に乗っているかなど関係ない。結局大切なのはこの三つだと。一、誰を愛しているのか。二、今までどんな人生を送ってきたのか。 三、これから何が起こるとしても、自分は準備できているか。
クリスチャンの信仰をもった多くの友と同じように、この私も、クリスチャンとしての信仰は意義のあるものであるとわかった一人なのです。