翻訳者の書斎から 8 誠実な探究者

山下 章子
翻訳者

 「教会からの回復(recovery from church)」何とも悲しい言葉ですが、フィリップ・ヤンシーの著作活動の原点は、ここにあるようです。

 彼は人種差別の横行していた米国深南部に育ち、根本主義に染まった教会生活を送りました。後にバイブル・カレッジ、さらに大学院へ進み、ジャーナリストとして世に出ますが、自らを育んだ教会の狭量なあり方には疑いを抱いていました。どうもクリスチャンは福音を、イエスを、誤ってとらえている節がある。本当の神とは、イエスとは、どのようなお方なのだろう。福音の核心とは何だろう。疑問を解決すべく探究がはじまります。そして『神に失望したとき』や『だれも知らなかったイエス』などの作品に結実していきました。

 ジャーナリストであるヤンシーは、まず冷静に現状を見つめることからスタートします。人が神に失望する理由、世間一般に流布しているイエスのイメージ、親しむ人の少ないという旧約聖書への先入観。次々に紹介される事例の中に、自分の姿や思いを発見する読者も多いのではないでしょうか。

 現状を洗い出した上で、ヤンシーは聖書そのものと向き合い、ときに信仰の先達の言葉をヒントに、真実を探っていきます。そして徐々に、神のご性格、イエスというお方の特異性、イエスを歓迎した人と、しなかった人の違いなど、様々なことが浮かび上がります。読者は、神の大きな愛と、律法主義に陥りがちなクリスチャンの弱さの両方をつきつけられることになります。

 『だれも知らなかった恵み』では、福音の核心が恵みにあると気づいたヤンシーが、その本質に迫ります。彼はしばしば、イエスは罪人の友であり、社会から疎まれていた人ほど、イエスと一緒にいることが好きだった。しかし、現実の教会はそうではないことが多い、教会に恵みがないからだ、と指摘しています。

 ヤンシーは、恵みとは革命であり、兵器庫であり、スキャンダラスなものであると言います。人間本性にとって、必ずしも愉快で受け入れやすいものではないわけです。真の意味で恵みを知ったとき、信徒も教会も牧師も、存在の根底が覆されるような思いをすることが書かれています。恵みを知るとは、行いによらない救いを知ること、自分にも、自分にとって許しがたい人にも、だた一方的に注がれる十字架のイエスさまの愛を知ること。

 しかし神の恵みを知ること、伝えること、受け入れることの、何という難しさでしょう。ヤンシー自身、信仰を失わずにきたのは、恵みにあふれて生きるクリスチャンとの出会いが大きかったそうですから、言葉だけで恵みを伝えるのは、元来困難な試みなのかもしれません。『だれも知らなかった恵み』では、物語を織り込む手法をとり、苦労して恵みを伝えようとしています。

 信仰も、ともすれば狭く硬直したものに陥る可能性があります。ヤンシーの著作をひもとくと、米国国内は、もちろん、世界の様々な地域における出来事、古今東西の聖人の話、映画に文学と、読者はあちらこちらへ連れ回されます。その中で、当たり前のように思っていた概念が多様な角度から光を当てられ、新しい姿で差し出されるのを見ることでしょう。また疑いや失望もひっくるめた正直な自分を神の御前に投げ出してもよいと知らされ、神を恐怖するのではなく信頼するよう励まされるはずです。彼の洞察に読者はわが身を振り返り、鈍くなっていた信仰の目を見開かされることと思います。

 ヤンシーには、これからもクリスチャンの密かな痛みに寄り添う、真摯で謙虚な執筆者でいてほしい、そして、ひとりでも多くの方が、神に失望するのでなく、神を信頼するようかえられてほしいと願うものです。

 最後になりましたが、この場をお借りして次の方々に感謝を申し上げます。訳書を仕上げる際、必ず数時間を割いて聖書や米国の社会、文化などについて集中講議を授けてくださる、日本アライアンス教団川口キリスト教会のドン・シェーファー先生とヘーゼル・シェーファー先生。折りにふれて助言をくださる東京ホライズンチャペルの渡部伸夫先生。私のような浅学の徒が翻訳に携わっていることができるのは、こうした方々のお力添えがあってのことです。心からのお礼を申し上げます。